Published in Camera Mainichi, June 1979
Category1970s
WORKSHOP寫眞學校 入学案内書(1975)
深瀬昌久 世の中シラケて面白くもないので、〝私が写真である、そして世界は写真のように謎に満ちている〟などと面白がって、他に出来る商売もなさそうなので、一生懸命写真をうつしている。 ぼくは田舎の写真屋に生れたために、氷
深瀬昌久『あるばむ』(「アサヒカメラ」1973年9月号、撮影メモ)
北海道中川郡美深町東一条北二丁目二十一番地「深瀬写真館」の長男、昌久三十九歳、父助造六十一歳、母みつゑ六十二歳、今夏七月、家業を継いでいる次男了暉三十一歳の運転で、親子四人水入らず、網走から知床半島をドライブしました。
写真作家シリーズ 深瀬昌久『歩行者天国』(「東京新聞サンデー版」昭和47年4月23日)
見渡す限り人がいます、見渡す限り自動車がいません、ここ東京の銀座通り、お天気のよい日曜日のただいま午後一時ちょっと過ぎ、どの人も、この人もうきうきと、どの店も、あのデパートもうれしそうなのはなぜでしょう? 解答はズパリ
山岸章二『作品解説』(深瀬昌久『遊戯』1971、中央公論社)
屠 62年から63年にかけて、深瀬昌久はよく芝浦の屠殺場へ通った。 その第一期は個展「豚を殺せ」の制作のため。第二期は出産直後の、まったく突然で動機もわからぬ幸代の家出のあと、痛む心をまぎらわすためにか、毎朝一番電車で練