Family, 1991

Video produced by Foam for the exhibition Masahisa Fukase – Private Scenes, 2018 © Foam. Video: Christian van der Kooy

Title: Family (家族: Kazoku)
Publish year: 1991

Edited by Akira Hasegawa
Design:  Kazuo Nitta

Included artworks: 34 plates 
Dimension:(H) 435 × (W) 305 mm
Format:Hardcover with slip case
Language:Japanese/English

Publisher:IPC Inter Press Corporation
Printing: Sannichi Printing

 

【本書収録跋文】
※数カ所、丸括弧で括った送り仮名は原書においてルビ表記されている

 記憶の中の私は、いつも人にかこまれていた。血縁の人達、近所の友達、生家の前にあった三本のアカシヤや、国民学校の入り口のニレの巨木までが、今の私には懐かしいというか、なにか人格化されて感じられる。私は今57歳だから、やはり人並みに老境に入った証というべきかもしれない。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世中にある人と柄と、またかくのごとし……」(方丈記)

 父は4年前に亡くなり、母も一昨年特別養護老人ホームに入った。弟は離婚し、その息子と娘は母と東京で自活している。妹夫婦は国鉄民営化で退職し、札幌郊外のスーパーのマネージャーになった。私の生家の「深瀬写真館」は人手に渡り、家族は四散した。

 私は、北海道の北端部に位置する中川郡美深町東一条北2丁目21番地で生まれた。父は助造(すけぞう)、母はみつゑ、祖父の庸光(つねみつ)は山形県からの屯田兵として入植し、日露戦争には陸軍伍長として従軍した。祖母みやのは同じ山形県庄内の足軽の娘だったという。祖父がどこで写真術を修得したかはわからないが、明治41年上川支庁写真師鑑札をとって美深町に半農半写(?)の写真館を開業、母はその次女として明治45年に生まれている。父助造は大正元年、美深町に近い風連村の農家の三男に生まれ、尋常小学校高等科を出るとすぐ村の写真館に丁稚奉行に出され2年ほどたって札幌の茶屋商店に移るが、すぐ「出写し」、つまり半月から一月単位で町や村の祭りや式事を巡り、注文写真を写したという。

 これは、私も中学生のころ、父の命令でやらされたものだ。お正月三が日は音威子府(おといねっぷ)駅前の旅館の入り口に「深瀬写真館出張所」の幟(のぼり)を立てて客を待ち、近郷の村祭りには綿あめ屋と並んで写真見本を並べたが、正直いってとても恥ずかしく嫌だった。

 どのようなわけで父母が見合いをして養子縁組をするにいたったかはもう知る人はいないが、昭和8年5月吉日に結婚式をあげ、その記念写真は祖父が写したのであろう。

 写真屋にあきあきしていた祖父はただちに隠居の身となって父が二代目を継ぎ、昭和9年に私が生まれる。子供のころの父は、とても怖かった。短気で癇性でちょっとしたことで怒鳴りまくったので、私は温和しく利口な子供だったが、父の前ではいつもびくびくしていたよ うに思う。

 写真館は繁盛して、お正月とかお祭り、卒業式とか入学式などの祝日は、家の前に写真を写していただくための、長い行列ができた。当時、写真館は町のエリートだった。

 父は、撮影と乾板の現像(まだフイルムではなくガラス乾板)、そし て鼻筋をたてたり口許を引締めたり肩を濃くしたりする修正技術なら自分より上手はいない、と自慢だった。母は焼きつけの担当だった。炭ストーブを焚いた酢の臭いのつんと鼻をつく小さな暗室に、私の目の高さほどの密着焼付機があって、乾板の濃さによってイチ・ニイー・ サン・シーとつぶやきながら露光する母のそばにいた私は、たぶん3歳か4歳だっただろう。母は一酸化炭素中毒で暗室でよく倒れたものだった。6歳のころには私も水洗を手伝わされた。手押ポンプで大きなバットにぎっしり入った合版(手札)や中版(キャビネ)の写真をかきまぜては水を汲み、水を切ってはまたポンプを押す。真冬などは冷たさに手の感覚がなくなった。

 小学校1年生のときに大東亜戦争が始まって、尋常小学校は国民学校に変わっていた。2年生のとき、弟の了暉(としてる)が生まれた。大本営発表はいつも「勝った勝った」のお祭りさわぎで、「鬼畜米英、撃ちてし止まぬ」と標語だけは勇ましかったが、食糧を始め物資は確実に窮乏していって、「欲しがりません勝つまでは」とやせ我慢していた。

 父が丙種合格で旭川歩兵師団に入営した。学校はいつしか援農という名の農家の手伝い集団となり、脚にゲートルを巻いては畠の草むしりをさせられた。写真材料なども全く手に入らず、町の商店全部が開店休業になった。年寄り子供を除いて、男は招集された。お寺の鐘や火鉢や火著とかの金物類はもちろん、私の可愛がっていた猫のタマまで寒地の兵隊さんの襟巻用に供出させられた。父は、半年で除隊になって帰ってきた。

 極端な食糧不足のなか、写真館はまだ食えるだろうと縁者が集まってきて、一時は15人位の家族になっただろうか。もとより深瀬家に食糧などあろう筈もなかったが、父が来る者を決して拒まなかったというのは、自分が水呑み百姓の倅で、口減らしに奉公に出された痛みがあったからだろう。毎日、馬鈴薯と南瓜ばかり食べていた。そのせいか、いまだに南瓜だけは食べる気がしない。だが、御多分にもれず私も「生命惜しまぬ予科練の七つボタン」にあこがれる軍国少年だった。敗戦の昭和20年に妹可南子が生まれた。あの8月15日、近所の池野電器店のラジオで町の人たちと玉音放送を聞いたのだが、なんの感慨も残ってはいない。ただ、やけに暑い日だったと思う。

 疎開児童も引揚げ、深瀬家の縁者たちも三々五々散っていった。私は5年生だった。

 中学は旧制の道立名寄中学、汽車通学だった。六・三・三制の発布された年で、私は旧制最後の生徒になったわけで、名寄中学が名寄高校に変わって2年生になるまで、4年間最下級生だった。

 高校2年生で下級生が入ってきたときは嬉しかった。まだ戦時の名残りで、上級生は威張って神様のような存在だった。わけもなく整列させられ、4年間毎日のようにビンタを張られていたので「今にみていろ、下級生が入ってきたら今までの仇を討ってやる」と秘かに期待していたのだが、いざ下級生が入ってくる頃にはもうバンカラの気風も消えていて、いってみれば殴られ損だった。

 あいかわらずいつも腹がへっていたが、とても辨当など持っていける身分ではなく、昼食はいつもコッペパン一個だけだった。農家の倅だけは特権階級で、銀シャリのお辨当様を食べていた。深瀨家の食事も戦時中よりは昇格して、米三麦七くらいのごはんを食べられるようにはなっていたと思う。写真館の感材も乾板からフイルムに変わり、小型カメラもぼつぼつ出始めたが、まだ金はあっても物がない時代だった。

 初めてカメラを買ってもらったのは、高校1年生のときである。家の後継ぎの私に小型写真機も覚えさせた方がよかろうと思ってのことにちがいない、写真機といえば写場のアンソニーか組立暗箱しか使ったことのない私は、ボタンを押すとポンと蛇腹が飛出す「セミ・パール」はまさに魔法のビックリ箱のようなもので、しばらくは枕元において眠ったものである。当時使ったフイルムは「さくらパンF」のたしかASA16だったと思うが、初めて写したのは学校の同じクラスのSさんというあこがれの君だった。学校でカメラを持っているのは私一人、皆写されたがって私とカメラはとてももてたが、根が写真屋なのでしっかり実費だけはもらうことにしていたし、今から考えるとかなりの小遣いを稼いでいたように思う。

 深瀬写真館三代目となるべく、日大芸術学部写真学科に入学、津軽海峡を渡り、初めて東京に出てきたのは昭和27年、18才のときで、阿佐ヶ谷の屋根裏部屋に住んだ。戦後7年、まだ復興期の東京には闇市があり、そこここには瓦礫が残り、GIとパンパンガールが腕くんで歩き、食事は外食券食堂だった。その年血のメーデー事件があり、進駐軍は駐留軍となった。大学時代は一応の仕送りはあったもののとても足りず、アルバイトに追われていたが、夏休みと冬休みには栄養補給のため36時間列車を乗り継いで帰省した。

 卒業の年の春、ある女性と同棲することになって、郷里には帰るに帰れず、東京で広告会社に就職した。それが写真師と写真家の岐路になったと今しみじみ思う。

 そして、生活に追われて郷里のことなど思い出す余裕もなく、弟が三代目を継ぎ10年以上が過ぎた。

 三十代も半ばになって、どんなきっかけでかは忘れたが急に郷里が懐かしくなった。郷里といえば私にとって北海道の「深瀬写真館」であり血縁の人たちである。何度か足を運び、美深町の様子や父を中心とした家族を写した。名寄の妹夫婦も参加して宴会となりいつもにぎやかだった。2階の写場には昔使った八ツ切アンソニーが健在だった。 皆で記念写真を写した。当時私はけれん味のある写真が好きで、ただの集合写真真では面白くないので、スパイスとして腰巻きヌードを配して一味つけようと企み(その頃私は腰巻きに凝っていた)、劇団員とか舞踏家とか知合いの女性に頼んでは美深町に連れて行ってモデルになってもらった。

 父母の葬式用の写真も写した。妹に娘が生まれ、5才で亡くなった。 写場での記念写真には途中10年近くのブランクがあるが、それは同じ配置で同じことをするのに飽きてしまったのと、北海道では他のテーマに集中していたせいである。昭和60年、礼文島でヌードを写す仕事があってひさしぶりにヌードを配して記念写真を写した。父はすっかり老いていて、もう永くはないなと思った。昭和62年正月、74才で死亡。お葬式に参列したあと父の遺影と家族の記念撮影をした。

 あのアンソニーは今、美深町の洋品屋でショーウインドウのディスプレイに使われている。