屠 62年から63年にかけて、深瀬昌久はよく芝浦の屠殺場へ通った。
その第一期は個展「豚を殺せ」の制作のため。第二期は出産直後の、まったく突然で動機もわからぬ幸代の家出のあと、痛む心をまぎらわすためにか、毎朝一番電車で練馬から芝浦まで通い、ひたすら写真を写した。これは「朝が来る」というタイトルで発表している。第三期は洋子と出会ってからで、自ら奇妙なマントをデザインして持ちこみ、場内で非公式に便宜を計ってくれた肉屋の友人や屠所の牛たちを驚かせた。
寿 花嫁の洋子とほんの近親だけの、小さな心のこもった結婚式をあげたのは64年。記念写真はもちろん花婿が撮影した。二回目の抽選で入居できた公団アパートで、マイ・ホームの真相を戯画した、私小説風なルポルタージュをおもしろがってつくっていた。
戯 68年の夏は新宿で暮らした。フーテンとゴーゴーとハイミナールと学生革命家がこの町のイメージだった。あるひとびとはセックスの革命に参加することにも積極的な意識をもった。
冥 60年から61年にかけて、深瀬が愛した女性の追憶なのだ。外房に旅行したときのものだという。この写真集のなかではいちばん初期の写真で、ういういしい。
母 妻洋子の母親は、自分と娘とがヘソの緒で繋がっているというような、この奇妙なポーズ集を、結婚まえの63年に写させている。
譜 いまも、深瀬昌久・洋子夫妻は3Kの団地に、一匹のシャム猫と母親とを加えて住んでいる。亭主は六年の年期の入ったヘラブナの釣師、女房も同じくらいの年月修業を積んだかいあって、ときおり大曲の能楽堂の舞台で観世流の謡曲と仕舞いを演じる。
深瀬はコマーシャルの仕事から写真の出発をしている。小さな会社のスタッフだった。ちっぽけなものばかり撮らされて、つまらなかったと思う。だがそれが、自分のなかのなにかを賭けてたち向かうには不足だなどと、不遜なことをいったことはない。いつもまじめに、求められるものに忠実に、いっしょうけんめい写していた。器用で、根気がよく、技法の勝った仕事も好きだった。
それでもいっぽうでは、その動機が愛であれ、フラストレーションであれ、<自分が><写真を撮る>という意味を確かめたかった。その気持が、自分と自分の身内にレンズを向けさせることになる。
写真の歴史は近代の造形主義的な志向に、ルポルタージュの効用を重ねた。しかしそこでは写真家はあくまでも見る立場にあって、見られるものではなかった。深瀬は写真のリアリティーを、自らをあばくかたちにおいてこの十年を撮り続けた。写真の私小説と呼んでもいいだろう。なおこのどろどろと黒い視線の持主が、日常意外にあたたかい笑顔の持主であることもつけ加えたい。
山岸章二