「2. インタビュー」カテゴリーアーカイブ

戦場写真家が日常に見出した生命の狂気

9月1日、16時30分。丸の内線経由で東京駅に降り立つ。降りしきる雨とここ数日の寒冷が、早くも秋の到来を予感させる。この日、私はある男と丸ビル5階で落ち合う約束をしていた。
地下の直結通路から丸ビルのエレベーターに乗り込む。約束の時刻より、まだ30分は早い。しかし5階まで上がりきった16時36分、ケータイにメッセージが。「荷物がたくさんあるので中央のテラスにいますね」。すぐさま吹き抜けのテラスへ。その先に、大きく手を振る男の姿。亀山 亮さんだ——。
アフリカの紛争地帯を7年にわたって写した『AFRIKA WAR JOURNAL』刊行から2年。写真家、亀山 亮さんが新たな個展を開催する。この展示内容について話を聞かせてもらうため、わざわざ東京駅まで来てもらった。涼しげな演出がされたテラスに辿り着くとすぐに、亀山さんは謙遜に近いことばをいくつか続けたが、それに反して屈強な見た目の身体がずっしりとした独特の気概を臭わせた。
亀山さんの荷物が多いことも考慮し、周囲の店にも入らず、このままテラスで落ち着くことに。 たしかにずいぶん重装備の様子。剣道の竹刀袋も持っていたりと、なにやら異様な出で立ちだ。

「なんだかすごい量の荷物ですね」と尋ねると、「金沢いったあと、沖縄でワークショップに出て欲しいって頼まれて。せっかくだから、あっちの仲間と会って、そのあと魚突きしようと思ってさ。それでこの荷物なの」との返答。さきの竹刀袋には銛(もり)が収まっているらしい。

この数分前、亀山さんは東京に着いたばかりだった。金沢のギャラリー「SLANT」で9月6日から始まる個展のため、八丈島から飛行機でやってきたのだ。このあと、千葉にある実家に寄り、そのまま今晩には金沢へ向かうという。そのわずかな隙間を縫って、会う時間を作ってくれた。

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亀山 亮『Day of Storm』図録表紙

『Day of Storm』——〝嵐の日〟と題された今作。1冊目の舞台となった〝アフリカ=紛争地〟とは打って変わって、亀山さんの暮らす八丈島が舞台だ。展覧会に合わせ、この展示会場でもある金沢のギャラリー「SLANT」から図録が刊行された。
亀山さんはこの7年間、八丈島で暮らしている。八丈島は、東京都から南方に続く伊豆諸島のひとつ。行政区分は東京都八丈町となる。つまり東京の島だ。気象庁によれば、火山活動度ランクCの活火山。空路か海路で渡り、特産品はくさや、焼酎、黄八丈などなど。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

 「17歳の時、初めて(八丈)島まで遊びに行ってさ。そのとき、当時26歳くらいの男の人と島で仲良くなって……」。亀山さんが、八丈島に関わるようになったきっかけを話してくれた。

「17っていったら思春期じゃん? 社会の中で、うまくやれてなかった。その彼も、ドロップアウトして島に住み始めた人。それで、年は違ったけど意気投合して。彼はその2年後に死んでしまうのだけど、それまでは彼に会いに、ちょくちょく島を訪れるようになったんだよね」

1人の男との出会いから身近な存在になっていった島は、のちに亀山さんのパートナーとなる女性の故郷でもあった。偶然が偶然を呼び、やがて亀山さんは八丈島で暮らすことを決意する。

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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

「戦争のときは、撮るぞ!って意気込みでいくけど、(島での)私的なことの場合、撮っても撮らなくてもいいや、って感じで。撮らないときもあったし、人に見せたいとかでもなかった。ただなんか、ふとした瞬間にカメラを持っていて、ああ、いい感じとか。たぶん、それはカメラマン独特のものだと思うよね」
実際、今作『Day of Storm』は、亀山さんの眼に映った情景の数々である。
前半は、八丈島末吉地区で毎年8月15日に開催される盆踊りでの高速マイムマイム〟。なんともキャッチーな名だが、これはいわゆるマイムマイムを少しずつスピードアップさせ、しまいには身体も追いつかないほどのリズムに達するという、なんとも意味不明な新型ダンス。詳しくは分からないが、つい数年前、この島で独自の発展を遂げたらしい。
後半では一転し、亀山さんが〝いい感じ〟に触れてきた瞬間のスナップが断片的に編まれる。牛の目、無数のカモメ、生まれたばかりの赤ん坊、焚き火、袋をかぶった男、時に髪を逆立て、時にうつぶせる狂気じみた女性……。どれも日常のワンシーンを切り取ったものなのだろうが、意図的な編集もあって、どこか不吉さが宿っている。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

とは言え、極私的なスナップショットがつづくわけだから、解釈するうえでなにか頼るものが欲しい。そこで役立つのが、写真のひとつひとつに添えられたキャプションだ。たとえば八丈島の盆踊り。次第にテンポ早くなっていくリズムに合わせて踊り狂う人々が、これでもかと映し出される。
そのキャプションには「2日間、老若男女が櫓(やぐら)を中心に踊り回る」「子どもたちもノリノリ」「昼間、建てつけた櫓が倒れないか心配だ」などとある。夏祭りに夢中になる人々の様子は、喜びやおかしさを突き抜け、どこかルナティックに映る。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

読み込んでいくと、或る2枚の写真に添えられたキャプションに目が留まった。

幾人かの女子たちがマイムマイムの輪になりながら、黄色い声を上げている1枚には『「ハレ」の日』というキャプションが。また、その数枚あとには2人の男が腕相撲をとる1枚があり、そこには『「ケ」の日々』とある。


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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

「ハレ」と「ケ」。「ハレ」とは「晴れ」であり、儀礼や祭りといった「非日常」を表す。「ハレの日」は日常から一転して、衣服は「晴れ着」、食事は「モチや赤飯」、空間は「晴れ舞台」となる。対して「ケ」とは「褻」であり、「日常」を表す。「ハレ」と「ケ」では、言葉遣いや立ち振る舞いにも区別がある。
また「ケ」の日々が続けば〝気が枯れ〟る。これが「ケガレ」だ。ときおり「ハレ」(非日常)が挟まることによって「ケガレ」(気枯れ)は清められ、再び「ケ」(日常)の日々に戻るだけの精力がつく——。近ごろではつい忘れがちな感覚だが、それでも今なお我々の生活に根づいた伝統的なものである。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

この「ハレ」と「ケ」を頼りに、亀山さんが綴る「嵐の日」を振り返ろう。

前半に展開される「盆踊り」は明らかに「ハレ」だ。普段見せることのない感情をことごとく放出させるかのように、誰もが高揚しながら踊り狂っている(そしてそれは〝高速マイムマイム〟によって印象的に描かれる)。対して後半のスナップは総じて大人しく、日常の淡々としたリズムが目にとれる。言い換えれば前者は夜であり、後者は昼である。
その合間に挟まれるのは、「ハレ」と「ケ」のどちらにも属さない2枚の写真。1枚には、山を背景にした空き地に舞う、ふたつのゴミ袋が映し出され、そのキャプションは「身辺整理したものをゴミ捨て場に投げ捨てた彼は、数日後自ら命を絶った」。もう1枚は大きくブレた暗がりの山道。キャプションは「車で山道を猛スピードで駆け抜ける」——。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

この印象的な2枚は、もしかすると「ケガレ」と言えるかもしれない。
ケガレ、気枯れ、穢れ。それは日常生活でも蓄積されていくが、死や病によって決定的なものとなる。友人の死によって「ケガレ」を抱えた亀山さんが、ほとばしる感情に身を任せ、暴走する。
友の死の未練を乗り越える——。そうして見ると、二枚目のブレた木漏れ日は〝振りまかれた「清めの塩」〟のようにも見えるし、一枚目のゴミを投げ捨てるさまは〝塩を振りまく〟ようにも見える。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

そこまで話すと、亀山さんが応答してくれた。「(これまで自分が被写体にしてきた)戦争の究極は〝死〟でしょ? 僕は死に興味がある。僕の友達は、島で死んだ。僕の父も、会社でのストレスが原因で、僕が25くらいの時に自殺してしまった。日本は自殺する人が多い。年間3万人が自殺している。その手ざわりのない実感とか、実体のない感覚に、僕は違和感がある」
「僕の連れが、精神障害の施設で働いていてね。精神障害という括りもおかしい感じだけど、彼らとよく付き合うようになって思ったのが、自分がそれまで撮り続けていたアフリカのPTSDを抱える人たちの姿と変わらないってことだった。社会に適合する、しない。それは社会が決めていること。そういうのも含めて、分かる人には分かるけど、分からない人には分からないっていう写真の良さに委ねることにしたんだよ」

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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

亀山さんが続ける。「僕は死に興味がある。いくら金持ちでも、死んだら終わり。たまたま僕がやってきたことが戦争だったこともあって、常に現場が死に近かったこともあって、死について色々考える。たまたま僕の周りも、途中で死んでしまう人たちもいた。人間の狂気、戦争の狂気。〝普通〟と〝普通じゃない〟の違いもよく分からない。そういうことを等しく出してみたかった」
亀山亮、『Day of Storm』。これは〝戦場写真家による私写真〟のようでいて、そうではなさそうだ。戦争を駆け巡り、向き合ってきた死への尽きない問い。これが『Day of Storm』においても繰り返されるという点において、亀山さんにとってはこれもまた戦場写真なのかもしれない。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

命を枯らすまで自己存在の理由が問われる現代日本。右へ倣えのムラ社会は今なお国家において健在であり、単一民族の我々がそのなかにおいて生存と繁栄を継続するためには、ケとハレの循環、そのなかにおけるケガレの浄化作用が不可欠だ。それは列島を離れた島においても同じこと。そればかりか、島においてこそむしろ健在であることを、亀山さんは問いかける。
Day of Storm、嵐の日——。亀山さんが写真の先に見つめるものはアフリカでも八丈島でも変わらなかった。生と死の境における、命のふとした気まぐれさ。命のテンションは時に、ふとしたことがきっかけとなって緩み、そして時には途切れる。その弾ける瞬間に対する、正直な疑問。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

〝ハレ〟であり〝夜中〟の高速マイムマイムからは生命の狂気的な瑞々しさがこれでもかと劇的に映し出され、しかし〝ケ〟であり〝昼〟の八丈島では一転して、狂気的な死の香りが漂う。理屈や思考を超えた、コントロール不可能な生命のもどかしさ。
これから先、この男は冷たくも優しい眼でそれらを見つめ続けていくのだろう。たしかにそれこそ、写真でこそ映し出せる〝見えないなにか〟であり、写真家が見つめる写真の先にあるもののひとつ。そしてそれは、写真行為にこそ成し得る問題提起でもあるに違いない。
——クアアイナで買ったビールも手伝って、たがいに緊張もとけ、与太話になったところで取材終了。膨大すぎる荷物をふたたび背負った亀山さんは沖縄での釣りをただただ楽しみにしているらしく、竹刀袋に入った銛を強く握りしめ、「がんばってね!」と言い残し、すばやく去って行った。■

亀山 亮さんの個展『Day of Storm』が本日、9月6日(土)より金沢のギャラリー「SLANT」にて開催。本日19時より亀山さんによるトークショーも。また同日より富山県にて写真家・田附勝さんとの2人展『亀山の眼 田附の眼』も開催しています。
 

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亀山亮 写真展「DAY OF STORM」

2014年09月06日(土)ー 2014年09月28日(日)
会場:SLAN / 入場無料
http://www.slant.jp/

亀山 亮トークショー
『戦場カメラマンが見た パレスチナ、アフリカ』

日時:2014年9月6日(土)
18:30開場 19:00開演(約1時間)
会場:金沢21世紀美術館地下「シアター21」
石川県金沢市広坂1-2-1
入場料:500円
WEBSITE

 

60549田附勝・亀山亮二人展
「亀山の眼 田附の眼
みえるものとみえないものとの境界」

2014年09月06日(土) – 2014年11月09日(日)
ミュゼふくおかカメラ館
〒 939-0117 富山県 高岡市 福岡町福岡新559番地
TEL: 0766-64-0550
WEBSITE

 
 

フランスはパリ西部の森に生息する妖しくも艶やかな貴婦人たち

Interview and text by Tomo Kosuga
[初出掲載:VICE.com日本版 2014年3月]

ここは新緑の森。生い茂る草木をかき分けて進むと、木々の先に女が見える。 服装の一部が下着姿という、まるで森に似合わない格好だ。遠くからでも見てとれる、不自然なほど盛り上がったボディは木漏れ日に照らされ、いっそう艶やかに映る。なぜ、こんなところに——? そんな疑問も打ち消すかのように、女が赤い唇を開く。
「ねえお兄さん、楽しいことしてかない?」

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より
中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

〝森で女に誘惑される〟。かるく現実離れしたこのシチュエーション、ともすると小説にこそ相応しい響きだ。男性諸君は好奇心をくすぐられる反面、現実にあるものとはつゆほどにも信じないだろう。しかしこれが世界のと或る場所で、実際に起きていることだとしたら……?

今回紹介するのは、フランスはパリ西部に広がるブローニュの森に夜な夜な出没する、妖しくも艶やかな貴婦人たちの物語である。

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

「ブローニュの森では、夕方から夜にかけて娼婦が出没するんです」

そう語るのは写真家の中田柾志氏だ。2005年と2009年の2回に分けてブローニュの森を訪問。そこに息づく独自文化の実態を記録した。

「森は神聖なイメージだけれど、娼婦は〝欲望〟の象徴。森に娼婦がいるというだけで、面白いなと思って。それで、森が一番見栄えする新緑の時期に訪れてみた」
ブローニュの森があるフランスでは、売春が原則的に合法とされている。或る者は学費のため、或る者は生活のため。おのおの理由があって、男を誘惑する。
もっとも、客を捕まえるには街中が一番。なにより安全だし、客も見つかりやすい。では、わざわざ夜の森を選ぶ者たちがいるのは何故なのか——。 そこには特別なワケがある。

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

「そこの娼婦たちは、大半が元男性なんです」

そう中田氏が証言する通り、ブローニュの森はかつて「男娼のメッカ」と称されるほど著名な売春地帯だった。取り締まりが強まった今でも、枯れ葉をベッドに、木々を背の支えに、性行為に勤しむ男たちの姿は絶えない。

森での交渉はたいてい、4,000〜5,000円程度で成立するという。
「お客は労働者が多いみたいです。森の中で済ませる者もいれば、車で女の子をピックアップしていく者もいる。なかには急ごしらえの小屋を建てている人もいましたよ」

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

最初の1人を見つけたときのことについて、中田氏に訊いた。

「遠くから見ても、あれは男だろうなと思いましたね。ちょっと異質なものというか。ゴツくて、男の性欲が沸くような感じではなかった。でもブローニュの森はとても広い。どこに出没するかなんて見当がつかない。それだけに、見つけた感動もひとしおでした。本当に存在したんだ!って」

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より。目をこらすと腰にツノが生えていることに気づく

もはや珍獣のような輝きを放つ貴婦人たちだが、その舞台であるブローニュの森も負けていない。「ブローニュの森」と聞いて、人によっては思い浮かべる出来事があるはずだ。そう、佐川一政が起こした「パリ人肉事件」である。

時は1981年。フランス留学中の日本人学生、佐川一政がオランダ人女性留学生を殺害。屍姦後その肉を食べ、一部を保管していた事件だ。この事件が発覚した場所こそ、ブローニュの森だった。遺体が収まったスーツを池に棄てようとしたところ、目撃され逃亡したあげく、佐川は逮捕されたのである。

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

時代を震撼させた悲劇から30年余り。今なおブローニュの森において〝生臭い〟賑わいが衰えることはない。その実態をわざわざ記録しようと訪れる者は珍しいようで、それなりの歴史を持つブローニュの森の貴婦人たちをベッヒャーに倣った類型学的作品にまとめたのも、中田氏が初めての様子。 どうやらこのブローニュの森とやらには、日本人を惹きつけて止まない魅力が秘められているようだ。

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

様々な歴史も相まって、なにやら危険な香りが立ちこめるブローニュの森。その撮影たるや、相当な緊張感で押し進められたのでは?と思いきや、中田氏の答えは真逆だった。

「撮影自体は淡々としてました。彼……いや、彼女らを見つけたら声をかけ、撮らせて欲しいと頼む。意外に陽気な人が多いせいか、みんな乗り気でしたよ。それから一応、交渉の段階でサングラスをかけるかどうか訊くようにして」

そんな森の貴婦人のなかにはどうやらホンモノの女性も混じっているらしい。しかし顔にかけたサングラスが性別のボーダーラインを絶妙に覆い隠してしまうのも手伝って、なかなか判別がつかない。この人は女性ですよね?と訊いても、中田氏に「男だと思いますけどね〜」と否定されること数回。
「元男性はどうも〝出したがる〟人が多いようで。何枚か撮ると、自らオッパイをポロリし始める人もいましたよ」

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

中田氏が並々ならぬ情熱で写した『ブローニュの森の貴婦人たち』。これも見る人によっては、奇抜さの行きすぎた作品に思えるかもしれない。実際、中田氏が手がけた他作品を挙げてみても、ドイツのエロスセンターやタイの女子大生、インターネット上で「モデルします」と告知する女性を写した写真シリーズなどなど、いわゆる性をテーマにした作品が目立つ。しかしかつては、15年にわたって「環境破壊」をテーマに追いかけるシリアスな写真家だったというから驚きだ。一体なにがあって、こうまで変貌を遂げたのか?

「たとえばアラル海という、世界で4番目に大きな湖があって。旧ソ連時代の無謀な農業制作が原因となって、その面積はどんどん小さくなっている。それからツバルという国。これは世界で4番目に小さい国なんですけど、地球温暖化で海水が上昇している」
「このふたつは、真逆の理由で将来なくなってしまうのでは?と言われている。それらを一緒に見せたりだとか。そういう環境系のマジメな写真を撮っていたんです」 しかしお告げは突如として下されるもの。「ツバルから帰国して、ふと思った。なんで自分はこんな写真を撮っているんだろうと。それで無性に、真逆のことをやりたくなったんです」。
自問自答の末、中田氏が導き出した答えが……「環境の真逆といったら、エロだった」

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

中田氏が最後に〝森の貴婦人〟を写したのは2009年。それからの5年でも変化はある。今年フランスでは売春行為を撲滅する動きが活発化。昨年末に下院で可決された法案は、買春者(客)に最低1,500ユーロ(約20万8千円)の罰金を科すという内容だった。 パリの珍獣ならぬ、森の貴婦人たち。

「世界広しといえど、森娼がいるのはここくらいなんじゃないかと思いますね」
そう中田氏がクギを刺すように、陽気な彼女たちは他でなかなか見られない貴重な存在だ。その生態に至っては、世の流れ次第では今後見られなくなってもおかしくはない。本作の歴史的価値は計り知れないものがある、とは果たして言い過ぎだろうか。

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より、地面に捨てられた大量の使用済み避妊具

パレスチナ、イラク、アフガニスタン…紛争地を駆け巡った男が日本の 孤独死 に見たもの。

Interview and text by Tomo Kosuga
[初出掲載:VICE.com日本版 2014年3月]

「命を懸ける」——。言葉で言うのはいとも容易いこと。実際、それを実践した人間がこれまでにどれだけいただろうか。今日ここで紹介するのは、自らが信じるものに命を懸ける人物だ。

その男、郡山総一郎が命を懸けて信じるものとは「写真」である。それがどれほどの覚悟なのかって? かつては紛争地でシャッターを切り、かつてはイラクで拉致され、かつては「写真と生活、どっちが大切なの?」と問う伴侶に「写真」と即答して天涯孤独の身となった、とでも言えば伝わるだろうか。実際、いま並べたことは郡山総一郎が体験してきたことである。

1971年生まれの郡山が初めてカメラを握ったのは2000年のこと。29歳でスタートという、いわゆる遅咲きだ。しかし行動力が並じゃなかった。この男が最初の被写体に選んだのは、近所のお花畑でも自分の友達でも彼女でもなく、民衆抵抗運動が再燃して激しく動き始めた頃のパレスチナだったのだから。

パレスチナ、イラク、アフガニスタン、タイ深南部——。世界の紛争地を駆け巡ること11年。立派なフォト・ジャーナリストとなった男は或る日、転換期を迎える。東日本大震災だ。それまで日本なんて見向きもしなかったこの男は、まるで覚醒したかのように日本を撮り始める。被災地となった東北地方はもちろん、いま彼が夢中で追っているのは「孤独死」。

無垢な笑顔がひときわ目立つこの男、きっと面白いエピソードを語ってくれるハズと突いてみると、出るわ出るわ、写真を巡る物語の数々。東北大震災直後に向かった福島での奮闘、実際に清掃業に従事しながら写した孤独死、そして2004年にイラクで体験した恐怖とそこに至るまでの紛争地での11年……。計13,000字、14ページに及ぶ「郡山総一郎 人生劇場」をここに披露しよう……。


写真集『FUKUSHIMA × フクシマ × 福島』(新日本出版社、2013年)より

——東日本大震災から3年が経ちますね。郡山さんは福島を題材にした写真集を昨年末に出されてましたけど、初めは仕事で撮り始めたんですか?

郡山総一郎:そうですね。地震が起きたとき、僕は新宿の自宅にいたんです。さあ、週刊誌の張り込みに行こうと立ち上がった瞬間、大きく揺れた。調べたら、宮城が震度6強。これは被害が出ているはず、行かなきゃと思って。でもクルマが必要だと。「フライデー」なら、張り込み車輌をいっぱい持っている。電話しても通じないから、行っちゃえと。護国寺まで10キロを走って40分。7階まで駆け上がって「編集者1人と記者ちょうだい」と頼んだんです。地震発生から2時間後には現地へ向かっていました。

——行動が早いですね。そんなに早い動きだと、福島に向かう道程で入ってきた情報はまだ少なかったんじゃないですか? 車の中ではどんなことを考えてました?

1号機の爆発は後で聞いて知ったんですけど、そのとき頭に浮かんだのが酪農家だった。しかも牛のいない牛舎。それが撮りたいと思ったんです。でも福島にはツテがない。そこで、JA(農業協同組合)関係のカメラマンに紹介してくれと頼んだら、浪江町津島の酪農家を紹介してくれて。4月には現地入りしたんです。そして1番怒られ、追い返された酪農家さんのところに2ヵ月半もお世話になることになりました。


写真集『原発と村 Vanishing Village』(新日本出版社、2013年)より

——その酪農家さんからは、なんて言われたんですか?

「忙しいから帰ってくれ」と。僕の前に外国メディアが入っていたみたいで。それに対して怒ったところに、僕がやってきた。入りは良かったんですけど、「撮らせてもらっていいですか?」と言い出したら怒り始めた。それから2、3日、福島市内のホテルから1時間かかけて通い詰めて。すると3日目、昼時に「メシ食ったか?」と訊かれた。「どこ泊まってんだ?」「福島市内です」「遠いな、うちに泊まってけ」と。そのまま2ヶ月半、居座らせてもらったんです。


写真集『原発と村 Vanishing Village』(新日本出版社、2013年)より


写真集『FUKUSHIMA × フクシマ × 福島』(新日本出版社、2013年)より

——当時、津島の放射線量は?

当時は飯舘村の線量が高い高いと言われていたけれど、そのすぐ側にある津島の放射線量は飯舘村の3倍だった。空間で30マイクロシーベルト。999マイクロシーベルトまで計れる線量計が、軒下では振り切れた。つまり1ミリは超えていたんです。それでも住民は現地の線量を全く知りませんでしたね。

写真集『FUKUSHIMA × フクシマ × 福島』(新日本出版社、2013年)より

これは1年遅れの結婚式。この方の娘さんは3月12日に式を挙げる予定だった。それが震災で出来なくなって。1年後の3月13日に式を挙げたんです。これはちょうどリハーサルの最中ですね。「気持ちのピークは11年だったのに、すっかり1年遅れてしまった。でもやっとできて安心した」と仰ってました。今はお孫さんも生まれて。福島に戻って生んだんです。


写真集『FUKUSHIMA × フクシマ × 福島』(新日本出版社、2013年)より

これは作業員さんたち。3月11日、彼らは原発内にいました。当時はヤクザとの繋がりがどうだとかで、作業員さんが叩かれたじゃないですか。でも実際は、他から来た人たちなんて事故後すぐに逃げちゃった。それでもやると言ったのは地元福島の人たち。自分たちは線量いくら食ってもいいからって。このうちの2人は100ミリシーベルトの限界をとっくに超えていて、1人は積算線量計で268ミリ食ったって。

ここには映ってないんですけど、仲良くなった方には社員さんもいます。或る方は震災当時、吹き飛んだ建屋の破片をどける作業をしていました。その前には線量を図る作業を独りでされていた。たった20分で5ミリの線量を食ったとか。それでも瓦礫をまず片付けないと、作業員が中に入れない。本来はクレーンで作業するところを、時間がないからと手作業でやっていたんです。そして彼も線量がパンクしたと。

——皆さん、体調はその後どうなんですか?

この写真に写っていない人がいるんですけど、目の前で3号機からピンク色のキノコ雲が上がるのを見た人がいます。彼は医者から、甲状腺にポリープができていると言われたみたいですね。


『Apartments in Tokyo』より

——この3年で被災地を追いながらも、新たに追いかけているテーマが「孤独死」だとか。

そうなんです。最初は週刊誌の編集者から「郡山さんにもってこいの企画ありますよ」と振られて、2013年の5月と8月に取材したんです。すると、これは面白いなと思い始めて。清掃会社の社長に頼み込んで、現場が出たら行かせてもらうことにした。でも連絡はいきなり来るから、週刊誌の仕事と同時進行ができない。だから一時期は週刊誌の仕事を辞め、その清掃会社にバイトとして雇ってもらったんです。見積もりの時には撮影、それが終わったら作業をする。そういう感じでやるようになりました。

——確かにそれが手っ取り早いけど、これまた極端な! 清掃会社で働いてみて知ったことは?

印象に残っているのは、ニオイとかじゃない。時間が止まった気配というか。さっきまで人がいた感じ……たとえば友達が買い物に出ていて、誰もいない部屋に上がり込んだ感じというか。そういう雰囲気なんです。


『Apartments in Tokyo』より

——郡山さんは紛争地で悲惨な光景を数多と見てきたと思います。そんな郡山さんの目に孤独死の現場はどう映りました?
今までにないくらい「リアルな死」というか。孤独死した人のことは概要しか知らないはずなのに、作業を始めると人物像がだんだん出てくる。たとえばどんな本を読んでいたか、どんなものを食べていたとか。部屋に残されたものが物語ってくるんですね。
初めこそ、目がいきがちだったのは人型に残った跡とか、床に残された体液。でも次第に、そういうものは撮らなくなっていって。代わりにベッドのシワとか、テーブルに残されたものとか。そういうものが気になるようになりました。あと清掃作業って、どんな部屋でも大体4時間で跡形もなくなるんです。その儚さ。撮る意味はあると思いました。


『Apartments in Tokyo』より

たまに現場に遺体を引きずった形跡があって。今年2月アタマに行った現場は、故人が150キロの体重だったらしく、ベッドからリビングまで警察が引きずった形跡があった。抱えられなかったんだなと思って。他にも、日にちの経った遺体を部屋で落としちゃったのか、タプタプに腐った内臓がピチャッ!と飛び散った跡とか。とにかく気配はいろいろ残っていて、それに驚きましたね。

今じゃもう、孤独死の部屋という意識もなく淡々と撮っています。もちろん部屋に入る前には訊きますよ、孤独死した部屋なのかどうかって。自殺の現場は撮らないから。でも部屋に入ったら、もう忘れている。ニオイも気にならない。


『Apartments in Tokyo』より

——実際に清掃の現場に就いてみて、なにか感覚的に身についたことってあります?

孤独死しがちな部屋、というのが分かるようになりました。清掃の依頼が入って、現場近くまで行くじゃないですか。どの部屋か知らなくても、外から窓を見れば分かる。あー、あそこかって。そういう部屋は他人を寄せ付けない雰囲気があるんですね。窓に段ボールを貼っていたりだとか。

それから遺体は腐敗しているケースが多いので、部屋に人型の跡が残っていることがあるんですけど……

——えっ、人型!? それって〝体液〟が床に染みついてできた跡……ですか?

そうですそうです。その人型の8〜9割が、頭を玄関に向けているんです。苦しくて倒れたあと、外に出ようとするんでしょうね。そして力尽きると。

それから孤独死って天涯孤独のイメージがあるじゃないですか。僕は20〜90代まで見てきましたけど、実際は違うんです。大半のケースにおいて親族は周りにいて、しかも近所に住んでいる。或る現場の男の子は、母親が徒歩10分圏内に住んでいた。だけど2ヵ月間、彼の死に誰も気づかなかった。座った状態でミイラ化していたらしいですよ。それが見つかった理由にしても、おそらくは〝体液〟が下の階に染み落ちて発覚したんじゃないかと思うんです。


『Apartments in Tokyo』より

或るNPO団体の計算では、23区内で1日10〜20人が孤独死で亡くなっているらしいです。最近多い現場は都営住宅ですね。都営が全部空いちゃうんじゃないかってくらい、依頼は多いです。23区内で多いのは、練馬、板橋、北区、足立区、墨田区辺りかな。

——ところで郡山さんって、もともと戦場カメラマンなんですよね?

自分ではドキュメンタリー・フォトグラファーと言っています。報道写真家やフォト・ジャーナリストと名乗っていた時期もあったんですけど、今は紛争地っていうイメージではなくて。

——とは言え、あの「イラク人質事件」に巻き込まれた郡山総一郎さんですよね……?

あ、そうです。ネットでは知らない人が色々と書いてるんで、困ってるんですよね。


タイ南部ヤラー県バンナンサター郡にてタイ国軍のパトロールに同行中の郡山氏(2011年)

——紛争地を駆け巡って、イラクでは拉致され、それでも今なお活動を続けているってことですね。郡山さんがどんな人生を送ってきたのか、興味があります。長くなると思うんですけど、その写真人生を初めから聞かせてもらえますか?

(笑)じゃあ最初から話しましょう。まず僕、初めてカメラを握ったのが29歳なんですよ。それまでは大型運転手をやっていて。九州の宮崎県で、雪印の牛乳を運んでいた。そしたら2000年、雪印集団食中毒事件で大打撃を受けて。配達よりも返品の方が多くなった。30代目前だったこともあって、なにか別の面白いことをやろうと。ふとテレビを観ていたら、パレスチナのインティファーダ(民衆抵抗運動)が流れていたんで、そこ行こうって。

——えっ、そんな唐突に? もっとなにか理由は?

それが特になくて(笑)。ただ、小学生の頃に『アサヒグラフ』とかで石川文洋さんや沢田教一さんの写真を見ていた。なんでこの人たちはこんな想いをしてまで撮っているんだろう?という疑問はあったんです。こればっかりは行ってみないと分からないんだろうな、とも。それでたまたま目に入ったのがインティファーダの映像だった。


『イラク戦争開戦』(2003年、バクダッド)アメリカ軍の攻撃によって負傷した子どもたちがバクダッド市内の病院で治療を受けていた

——まずそこに行ってみたい、という欲望から始まったと。
そうです。行ってみたい、見てみたい。せっかく行くなら写真も撮ろうと思い、カメラを始めて。しかも海外なんて行ったことないし、パスポートもない。これが2000年。昔から〝思いついたらすぐ実行〟の人間なんで、その日の昼に会社まで行って「辞める」と伝えたんです。

——ワオッ、猪突猛進!

そしたら「ちょっと待ってくれ」と。返品対応もあるし、あと半年いて欲しいと。それで続けることにしたんですけど、半年後にはちゃんとパレスチナ行きましたよ。入国審査に3時間。英語も話せない。なにも出来ないのに、〝行きたい〟が先行しちゃった。


『イラク戦争開戦』(2003年、バクダッド)アメリカ軍の攻撃で亡くなった方の遺体を運ぶイラク人たち

——現地フィクサーもいない状態で、単独入国ですか。

はい、今考えると笑えますよ。結局40日くらいいたのかな。後半にも差しかがると、だいぶ慣れてきて。でもパレスチナ地区にだけは絶対に入れない。それでウダウダしていたら、たまたまエルサレムの旧市街で写真家のQ・サカマキさんに出会った。それでQさんに「これからチェックポイントに行くところなんだけど……行く?」と言われたから「行く行く!」って。

その30分後、Qさんが撃たれたんです。

——えー、なにその急展開!

跳弾が左手に当たって、骨にヒビが入った。翌日、Qさんから「車で一緒に連れていってあげるからアシスタントしてくれ」と言われて。レンズ交換とフィルム交換をやることになった。そのおかげでノウハウというか、取材の手順を学びました。

そのあと宮崎に戻って。出来上がった写真は散々だったけれど、とにかくあの緊張感が忘れられない。まだ20代、とにかく刺激がたまらなかった。銃声だ、催涙ガスだっていう。それでまた働いて、お金がたまったらまた行こうと心に決めました。


『パレスチナ』(2002年、ガザ地区)インティファーダ(民衆蜂起)でイスラエル軍に射殺された男性の葬儀

地元で配送業に邁進していると、今度は9.11が起きて。あの日、Qさんから電話が入ったんです。彼はニューヨークに住んでいるんですけど「テレビ観てる? NHKつけてみ?」と言われて。つけたら、ツインタワーに飛行機が突っ込む瞬間だった。それを見ても僕はピンと来なかったんだけど、Qさんが「次はアフガニスタンがやられる。俺はすぐパキスタンに行くけど、もし来るなら、どこどこのホテルにいるから。じゃ!」って切られて。エサ振られたよ!って(笑)。で、また会社を辞めましたよね。

——また辞めちゃった(笑)。それでそれで?

なんとか東京でビザを取り、パキスタンのペシャーワルまで飛びました。Qさんとも合流して写真を撮った。帰国後、写真を見てくれと色んな出版社にお願いし、唯一引っかかったのが『週刊朝日』。当時はまだポジだったんですけど、セレクトすらしていないポジを全て持っていって(笑)。恥ずかしー! 当時は写真の見せ方も知らなかったんです。


『パレスチナ』(2002年、ガザ地区)イスラエル軍による度重なる攻撃で破壊された難民キャンプ

じゃあ最初から見てみようとなって。これいいじゃん、これもいいねとやっているうち、「文章も書ける?」と。考えてもみなかったけれど、「書けます!」と即答。「じゃあ1200字ね、巻頭やりたいから」と言われ、ポジを持っていかれた。

——いきなり巻頭は快挙ですね! 文はどうしたんですか?

落ち着いてみると、作文もろくすっぽ書けないばかりか、パソコンすら使ったことがなかった。それで1200字書けと。焦って、すぐさま居候先の友達に「パソコンの使い方教えて」と訊いた。ワードの使い方だけ教えてもらい、1晩で1200字を書き上げました。その掲載誌がキヨスクに並んだのが、ちょうど僕の30歳の誕生日。

——おー、完璧なストーリー。

何度も何度も、自分のクレジットを読み返したのを覚えていますね。自分の目で見たものが紙になって、世に出せるという快感。それを知りました。さすがに文章は別人が書いたみたいに書き直されてましたけど。


『Bang bang Bankok』(2010年、バンコク)前日まではタイらしくのんびりとしていたデモ隊とタイ国軍がこの日初めて衝突した

そんな調子で、写真の面白さを知った。そのあとはテレビの組み立て工場で働いたりしながら、またお金を貯めて。溜まったら海外。それを繰り返していました。すると或る時、当時『週刊朝日』のデスクが電話をくれた。「写真続けるの?」って。「続けます。今も取材行こうと思って金貯めてます」と答えたら「お前、写真すごく下手だからさ。ちゃんと勉強した方がいい。仕事やるから東京に出てきなよ」と誘ってくれた。その1ヵ月後、ようやく上京を果たしたんです。


『Bang bang Bankok』(2010年、バンコク)衝突は夜になって激しさを増し、この日の衝突だけで日本人を含む20数人が亡くなった

——『週刊朝日』がくれた仕事というのは?

今もあるのかな? 「ドン小西のファッションチェック」をずっと担当していた。その合間合間、海外に取材へ行って。雑誌社だから、フィルムはいくらでも使わせてくれる。それは心配しなくても良くなって。そうして海外を回るようになっていって、2004年にとうとうイラク入りするんです。

——いよいよイラク入りすると……。読者の皆様、お待たせしました。ここからが本番です……。郡山さん、ということはイラク入りもそれまでの海外活動となんら変わらない目的や行動のためだったと。

そうです。付け加えると、前年にもイラクには入っていて。世話になったイラク人家族がいた。彼らが、引っ越したという連絡をくれていたんです。そろそろ行こうかなと思っていたし、劣化ウランなんかも見てみたかった。それで行くことにしたのが2004年。

——この件については色々あったと思うので、話せる範囲で構いません。「イラク人質事件」では郡山さんのほか、日本人2人が拉致されたと思います。彼らとは、どこで出会ったんですか?

現地に着いて、いつもの定宿に行ってみたんです。すると、例の2人がたまたまいて。当時のアンマン、バクダッドは物価がとても高かった。だから僕は移動の車を一緒にシェアしてくれる人を探していて。そしたら2人が「一緒に行く」と手を挙げた。もちろん初対面ですよ。あの当時、移動をシェアするやり方は全く珍しくなかった。


『Egyptian Revolution』(2011年、カイロ)昼間は汗ばむ陽気だが、朝夕はかなり冷え込む

夕方に宿を出て、朝方には国境を越えて。そしたら途中で、ふと車がガソリンスタンドに寄ったんです。「あれ、こんなところに寄るんだ?」と思った。運転手がスタンドで、ガソリンを入れ出した時、パッと横を見たら、マスクをしてRPGを持った連中が車で走ってきて。とっ捕まったんです。僕は他の2人とは別にされ、連れていかれた。独りになった状態で、30分くらい車で移動されて。

——えっ、怖い! 顔に袋とか被されて?

そうそう。左右をむっさいのに挟まれながら。

——連中はなんて言ってました?

それが全然分からないんです。彼らは英語が全く喋れない。とにかく(手招きしながら)来い来いと。で、連れて行かれた先には何十人かがいたんですけど、彼らがケンカしているんですね。コイツはなんなんだ?みたいな感じで。なかには止める人もいて。最終的には銃を突きつけられた。なに言ってるか分からないから、銃でどつかれる訳ですよ、胸を。

——えー、やだやだ! AK-47とかで?

そうそう、AK-47。でも、なぜか僕は開き直っちゃって。日本語で「撃てよコラ!」って叫んだら、向こうが黙っちゃって。それでまた車に乗せられ、2人のところに戻されたんです。あれ、なんだったのかなって。いまも思いますね。


『Egyptian Revolution』(2011年、カイロ)タハリール広場には衝突で破壊された車がそのまま放置されていた

——万が一の覚悟はしてました?

ああいうところを行く訳だから、そういうリスクは覚悟の上でした。それもあって、開き直っちゃったのかもしれないですけど。もともと気が短いんで、多人数でそういうことをするっていうのにイラッとしたんだと思います。

——それでそれで?

英語が話せる人のところに連れられ、メシをご馳走になり。で、ビデオを撮られる……

——それってもしかして犯行声明的な?

そうです。……順番が違うかな。どっちが先なんだ? メシの前にビデオ撮影をしたのか? いや、後だっけ……その辺の記憶がすごく曖昧で。というのも、色んな場所に移された。行く先々で相手が変わったんです。だから時間軸を正確に覚えられていなくて。これは3人で話しても話が合わない。3人が間違ってる可能性もある。

おそらくはこうです。まず普通の家に連れて行かれて。そこで話をし、誤解が解けたなと思ったんだけど、結局またどこかに連れていかれた。その翌日かな? コンクリート工場に連れていかれて。


『Egyptian Revolution』(2011年、カイロ)反ムバラク政権の集まるタハリール広場近くのゲストハウス

——おー、コンクリ工場はヤバイ!

そこでメシを食べたんです、みんなで。

——ああ、ゴハンね……良かった。

イラク人も一緒に。メシ食ったから大丈夫だなと思って。そしたら、ビデオ撮影が突然始まった。彼らとしては、怖がってもらわないと困るから。ワンアクション置いたんだと思うんです。後で謝ってましたよ。「怖かったでしょ、ゴメンね」って。

——ホント、そういう人たちで良かったですね。

あの頃はまだ色んな人たちが混在していて。僕たちを捕まえたのも、普通のイラク人たちだった。話を聞いたら、学校の先生だったり、建設会社で働いている人だったりで。要は家族が殺されていて、米軍は憎い。でもお前らに恨みはない。ちょうど日本が自衛隊を派遣する頃だったから、それは辞めて欲しいと。そういう意味で撮影したビデオだったらしくて。これは後で聞いた話ですけどね。解放される前日なんて、みんなで寝っ転がってジャッキー・チェンの映画を観てたんですから。


『Egyptian Revolution』(2011年、カイロ)朝方のタハリール広場

——マジッスか。それを写真で見たかった!

ハハハ! ジャッキー・チェンの映画、観てましたね。タイトルはなんだったっけ? とにかくその時は英語が話せる人たちだったから、意思の疎通もけっこうできた。ようやく安全なところまで来て、解放されました。

とにかく流れや目的はよく分からない。ただ、僕らを戦闘に巻き込まれないように、としてくれた感はすごくある。どんどん遠くにつれていかれたと思いますから。ジャッキーチェンの映画を観たところには2泊くらいしたんですけど、その前に3泊した場所なんて本当になにもないところだった。だからタイミングを見て僕たちを安全な方に、安全な方に動かしていたみたいです。

——一体どういう組織だったんですかね?

寄せ集めだったみたいですね。彼らが自分たちのことを言うとき、「レジスタンス」と呼んでいた。当時けっこういたんです。その他にもヨルダンとかから来ているような、米軍やっつけてやるぞ!っていうムジャヒディンたちも沢山いましたけど。たまたま僕らはレジスタンスに捕まった。それが良かった。


『Egyptian Revolution』(2011年、カイロ)ムバラク政権支持者による礼拝

——そういう恐ろしい体験を経て、人生観は変わりましたか?

命の危険を感じたことは、他でも何度もあって。パレスチナもけっこう通ってるので、怖い思いは何度もしました。その時ばかりは「なんでこんなところに来ちゃったんだろう?」と後悔はする。でも不思議なもので、また行きたくなるんですね。イラクは撮りたかったし、前の年に行っていて、いい印象があった。人もいいし、友達も出来ていたし。メールが一番のきっかけだったんですよ。「引っ越したから遊びにおいでよ」って。遠いぞと思いながらも行ったんですけど。

人生観か……ただ、写真を撮り続けるしかないな、とは思いました。要は帰国するとバッシングだらけ。僕の話なんて誰も聞いてくれなかった。テレビに出演すれば、生放送で騙される。打ち合わせと全く違うとか。結局、先入観で自分たちの筋道を作り上げているから、僕がなにか言ったところで変わらない。だったら行動で示そうと思って。ますます写真を撮ろうと思うようになった。


『戦争の後に来たもの』(2006年、カンボジア プノンペン)ゴミ捨て場で有機物を拾う人々

——そのあと動き出したのは?

4月に帰国して、次に出たのが6月かな? タイのHIV孤児施設を前に撮ってたんで、そこの子どもたちがテレビ観ながら泣いてたって、施設の人から聞いていた。だから顔を見せに行こうと思って。

その後、アフガニスタンに行った。イラクの時は正直、銃を向けられても怖いと思わなかった。だけど数ヵ月経って落ち着いてみると、色んな可能性があったなと考えちゃって。あのまま死んでいたかもと思うと、途端に怖くなった。

そんな気持ちのままじゃ、もう二度と紛争地には行けなくなる。じゃあひとつ、自分を試してみよう。アフガニスタンに行って写真が撮れなければ、写真を辞めようと思って。


『South』(2008年、タイ深南部ヤラー県)夕方、夕飯の買い出しに賑わう市場でムスリム男性が射殺された。報復を恐れるため、目撃者が名乗り出ることは少ない

——また極端な。

でもま、すんなり撮れたんですけどね(笑)。それで3週間くらい撮ってきて、また自信を取り戻して。銃を観ても、まだ写真が撮れると。あそこで無理してでもアフガニスタンに行かなければ、写真ももう続けられなかったのかもしれない。それと同時に、長く追いかけられるものを探していた。紛争地って、どうしてもスポットニュース的なもの。或る日思ったんです。僕らは自腹で行って、週刊誌で使われたら終わりでしょう? 流れていく消費的なものでしかない。もっと残るものを撮りたい。そう思うようになっていった。

……イラクのこととか、久しぶりに思い出しました。特に事件の9日間は曖昧で。昼も夜も分からない。時計もないから時間が分からない。


『South』(2008年、タイ深南部ヤラー県)タイ国軍によるテロ組織壊滅オペレーション。雨期特有の土砂降りで命令が聞こえにくく、怒鳴るように命令するコマンダー

覚えているのは、相手側のイラク人がいつも訊いてくるんですよ。なにが欲しい?って。僕はヘビースモーカーなので、「タバコ持ってきて!」と。すると各銘柄を計10箱くらい買ってきて。ごそっとね。それから、あの辺では鶏肉が高いのに、それをメシに出してくれたりとか。あとコーヒーがすごく飲みたくて。でも現地にはない。それも頼むと、頭を抱えながら「コーヒーハ…ナイ……」って(笑)。おじいちゃんだったんですけど、すごくいい人でしたね。

——結局、彼らの目的ってなんだったんでしょう?

僕が思うに、若いのが勝手に捕まえてしまったんですよ。それで、どう扱うかで困ってしまった。その流れのなかでビデオ撮影が始まり、そのあと彼らも反省して、という感じで。だから基本的に扱いはすごく良かったんです。


『South』(2013年、タイ深南部ヤラー県)朝、射殺された男性の遺体が病院に運ばれてきた。射殺などは早朝と夜に起こるケースが大半だ

——帰国後、日本の対応はどうでした?

すごかったですよ。そもそも一緒に拉致された他2人とは9日間も一緒にいる予定はなかった。ただ車をシェアするだけのつもりだったのに、ジャーナリストが素人と動くのはどうなのか?とかよく叩かれましたね。

現地には公安も来ていましたよ。解放されたその日から、公安が3人を尋問し始めた。僕は公安とかあんまり信用してないんで、適当に答えていた。でも全部決めてかかってきましたからね。こうだよね、こうだよねって。いや、そうじゃないよ、違うよ、なに言ってんだよって。そしたら30分程度で終わって。それに対して、ちゃんと対応していた他の2人は何時間も尋問されてましたね。

——帰国後しばらくはマークされたりとか?

された、された。公安手帳に僕の名前が載ってたらしいですからね。あと元自衛官だったから「反戦自衛官」と言われたりとか。


『South』(2013年、タイ深南部ヤラー県)深南部の主な地域、ヤラー、パタニー、ナラーティーワートを結ぶ道路には、警察による多くのチェックポイントがある

——郡山さん、自衛官だったんですか?

それも、元々なりたくてなった訳じゃなくて。お袋との約束で公務員になれと言われていて。その当時、僕になれる公務員が自衛官しかなかったというだけの話なんです。

——どれくらいの期間を?

陸上自衛隊に6年。元は競輪選手になりたくて。うちは片親なんですけど、高校を卒業した時にお願いをした。バイトはするから家に1年いさせて欲しい。それで競輪選手にトライして、ダメなら言うこと聞くからと。結局、選手にはなれなかったから自衛隊に入った。そこに思想があるかと言ったら、ありませんから。なのに、イラクの時にはすごく言われて。自衛隊だったから、そういうのを撮るんですかって。全く関係ないですよ。

話を戻すと、イラクに行く前はいくらでもバイトができた。でもあの1件で顔が割れちゃったから、バイトも出来なくなっちゃって。そうすると金がなくなりますよね。


『South』(2011年、タイ深南部ヤラー県)ムスリムが多い深南部では屠殺場も豚は仏教徒、牛はイスラム教徒で作業が分担されていた

——そりゃ大変だ。どう対処したんですか?

上野彦馬写真賞というコンペがあって。グランプリの賞金が100万円だった。2006年に応募したら、グランプリ獲っちゃった(笑)。その100万円で食い繋ぎましたね。そしたらフライデーから声がかかって、週刊誌の世界へ。その後は、殺人事件の送検から芸能人の張り込みまでやるようになって。お金は安定するようになった。

その合間は海外取材に出る。だから家にいないじゃないですか。或る時、妻に訊かれたんです。「写真と家庭、どっちが大切なの?」って。それに対し、期待されていた答えを答えてあげられなかった。その結果、今は独りで生きています。

——写真に全てを捧げた13年だったんですね。最後に「孤独死」についてもう少し。死臭って……どういうニオイなんですか?

よく訊かれるんですけど、表現するのは難しいです。誰かは「くさやに酢をかけたニオイ」と言ってましたね。僕が思うに「コーヒー豆を濃く煎ったニオイ」。若干、芳ばしい。それでも吐き気は催す臭さ。あと、お酒が好きな方の死臭は甘い。アルコールのニオイなんですよ。それは入った瞬間に分かります。で、キッチンを見るとだいたい酒瓶が並んでいる。


『Apartments in Tokyo』より

——死後どれくらい経っているか、なんとなく分かるもんなんでしょうか?

夏だと、ウジのサナギの数を数えれば大体予想はつきますね。あと体液の出方とか。

——ウジってどこから沸いてくるんでしょう?

あれね、どうも換気扇からみたいです。開いているじゃないですか。1匹でも入ってくれば、卵を植え付けて、それが羽化して増えて……という感じで食われていく。或る現場では、フローリングにウジがウニウニしていたから、どこから沸いてきたんだと思ったら、フローリングとカベの隙間にズラーッて。あと布団をめくるのは怖いですね。絶対にウジがいるよねと。ドキドキしながら、エイッ!とめくると、ビッチリいたりだとか。

——孤独死の写真シリーズ『Apartments in Tokyo』では、もちろん刺激の強い写真もありますけど、そうじゃない側面を捉えることを大事にされていると思います。人が突然、孤独に死ぬ—。これは圧倒的なインパクト。ニオイは凄そうだし、呪われそうだし、気持ちが悪い……。現場を知らなければ知らないほど、そういった先入観だけが一人歩きしがちです。だからこそ孤独死と向き合ってきた郡山さんに訊きたい。そこに、なにを見たんでしょうか?

ひとつ言えるのは「孤独死を取り巻く環境」ですね。孤独死とはいうけれど、見つからない理由は必ずある。実際、遺族が酷いケースは少なくなくて。社長曰く、見積もりの電話で「うちの誰々が死んじゃってさー」くらいのノリで話してくる人は少なからずいるみたいです。

遺族が僕たち清掃員に「孤独死したのは私のせいじゃない」と言ってくることもある。訊いてもいないのに、必死で言ってくる。延々とですよ。僕らが言われてもしょうがないじゃないですか。あれって多分、故人に対して言ってるんですよね。


『Apartments in Tokyo』より

或る現場では、玄関に男性が3人待ち構えていて。「清掃で来られたんですよね?」って訊いてきた。「そうです」と答えると「僕、(亡くなられた人の)友達なんです。遺品を頂きたいんで」って。亡くなられた方がフィギュアマニアだったみたいで。玄関先に体液が広がっている現場だったんですけど、それをモノともせず勢いよく入っていって。どこになにがあるかを知ってるんですね。だから迷わない。もう物色ですよ。友達という名の泥棒というか。

それから第1発見者はといったら、遺族や近所の人を思い浮かべがち。でも実は圧倒的に少なくて。じゃあ誰が見つけるかといったら、新聞配達や牛乳配達、それから大家さん。隣近所の人たちはなんとなく分かっても、自分が巻き込まれるのを恐れて名乗り出ないケースが多いみたいです。


『Apartments in Tokyo』より

孤独死を撮っていると、知り合いから縁起が悪いとか、気持ち悪いとか言われますけど、そういうものじゃないと思うんです。僕も今じゃ独りで暮らしているから、いつか孤独死する可能性はある。君もそうでしょって。

孤独死は、新たな死のカテゴリー。これから数も増えていくと思う。それよりも、なにが問題なのかと言ったら、腐るまで放置されて見つかることに問題がある。それってやっぱり、孤独死を取り巻く環境に行き着くってことなんじゃないかなって。僕はそう思うんです。

郡山総一郎は今年で撮影7年目を数えるタイ深南部のフォトストーリーによる個展を開催予定。浅草橋・Gallery Drainにて2014年6月28日から。

郡山総一郎 公式ウェブサイト
http://soichirokoriyama1.sites.livebooks.com

Gallery Drain
http://gallerydrain.com

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写真界の暗黒超新星が世に放つ、夜闇の世界。

Interview and text by Tomo Kosuga
[初出掲載:VICE.com日本版 2014年2月]


ここに差し出したるは、黒い布が無造作に継ぎ接ぎされた不気味な1冊。もしかして黒魔術書? デス・ノート? いえ、これは写真集です。
今年デビューしたての写真家、山谷佑介が自ら手がけたという手製の写真集。その名も『Tsugi no yoru e』(次の夜へ)。装丁からして反骨精神というか、怒り狂ったドブネズミが近くで息絶えたヤマアラシの背からハリを1本ずつ抜き取っては自分の背中に植え込んで血まみれになってる的な(言ってる意味分かる? オレには分からない)。
とにかくツンツンした感じがいかにもヤマアラシのジレンマで、本は読むためにあるけど、この本だけはなんか開けちゃいけない様な雰囲気がたっぷり。でもここはひとつ、空気を読まずに開けてみようか。

ページを開くとそこに広がるのは、夜闇(やあん)の世界。
クシで髪をかき上げるパンクスの後ろ姿、夜の海に飛び込む青年、布団に横たわる裸の男女、市松模様で綾取られたライブハウスの床を削るかのように踏み込むロカビリーやパンクスたちの足……。
明けることのない闇の魅力に取り憑かれた連中が、匿名性の高い切り口によって写真に収まる。

不浄、あるいは総天然色ならぬ〝総ケガレ色〟とも言えるモノクロ写真の仕上がりは美しく装飾されることを拒むかのようだ。実際、この本はボロ布に包まれているわけだから。でもマイナスとマイナスが掛け合わされるとプラスになるように『Tsugi no yoru e』は絶妙な負の要素が絡み合うことで独特の魅力を放つ。そう、つまりオレたちはこういう写真(集)を待っていた!
そんなこんなで、山谷が作りだした暗黒の写真集『Tsugi no yoru e』(限定150部、2013年)は出版社や本屋を通すことなく、その年のうちに完売。ヤマアラシのジレンマを実践するかのように、人々の注目を浴びるよりはるか前に、暗闇へと静かに消え去ったというわけ。

この時代にストレートフォトを強烈な個性でぶっ放した山谷。1作目にして作家としての方向性は固まったかと思いきや、新作『ground (dance)』では全く異なる角度から新境地を切り開いた様子。
大雪が降り止まないバレンタインデーの2月14日、山谷がなにやら巨大な〝板〟を雪除けにしながらやってきた……。
 

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未知の惑星…!? 多くの謎に包まれた〝青い炎〟の真相に迫る。

Interview and text by Tomo Kosuga
[初出掲載:VICE.com日本版 2014年2月]


男はそもそも旅が好きだった。カメラはたまたま知人から譲り受けたから持ち合わせていたのであって、そのほかと同列の荷物に過ぎなかった。人の運命とは、こういうことを指すのだろう。
1996年、ロスでスクウォッターとの共同生活を始め、自然とシャッターを切り始めた。その後、ロスのチカーノギャングを撮影。そしてフィリピンはマニラのスモーキーマウンテンを訪れ、ゴミ拾いで生計を立てる人々をフィルムに刻んだ。さらに今年、いよいよ宇宙へ——?
男の名は名越啓介という。相当クレイジーな日本の写真家だ。

世界一ピュアな 伝説のパパラッチ小僧

Interview and text by Tomo Kosuga
[初出掲載:VICE.com日本版 2014年1月]

パパラッチ——。正直、あまりいい響きの言葉じゃない。そういうイメージが根づいたのも、90年代にダイアナ妃がパパラッチの執拗な追跡によって帰らぬ人となってしまった事件は大きかっただろう。
金さえ手に入るのなら、人様のプライベートなんてお構いなし。世界中どこまでも追いかけて、時には人を死にも追いやる……。まさしく人間のクズと言ってもいいパパラッチ業界において、例外とも言えるほどジェントルマンな人物がいる。

〝Brooke Shields and Gene Simons KISS〟

彼の名はブラッド・エルターマン。どんな著名人を眼前にしても、心のカーテンを開けてしまう凄腕のテクニシャンだ。いまでこそ第一線から退いているが、70年代に16歳の時分からキャリアをスタートさせ、音楽業界、映画業界の大物を前に、なんともリラックスしたパパラッチ写真を残している。
というか、ブラッドの写真はパパラッチであり、パパラッチじゃない。有名人を待ち構えるところまではパパラッチだが、いつも笑顔で人懐っこいブラッドは出会ってからのコミュニケーションで瞬時に関係性を築き上げる。結果、出来上がるものはパパラッチ写真を超えているというワケ。ブラッドのパパラッチ写真は、まさしく70年代のエネルギーを正面から受け止めた時代の記録だ。

風雲現代刺青伝

Interview and text by Tomo Kosuga & Nuri Yosh
[初出掲載:VICE.com日本版 2014年1月]

話は唐突だが、「男子皆黥面文身」という一文をご存知だろうか。男子は大人と子どもの区別なく、誰もが顔や体にいれずみをしていた—。これは中国の歴史書『魏志倭人伝』(三国志魏書東夷伝倭人条)にある一節である。時は3世紀末、弥生時代の最中にあった日本列島を、西晋の陳寿という人物が訪れた。そこで出会った男たち(倭人)の全身に彫られた刺青を、陳寿は「男子皆黥面文身」と記しているのだ。
日本の歴史を振り返れば、古くは縄文時代まで遡れる刺青文化。社会的地位や宗教的側面から、かつて刺青は身体装飾として重宝されていた。しかし時は江戸時代を迎え、犯罪者の腕に前科の証拠として刺青を入れる「入墨刑」が普及。加えて現代では暴力団関係者が組織帰属のシンボルとしたことで、すっかり〝反社会〟の色が強くなった刺青。そのためだろうか、ここ日本では刺青を入れるにしても、服の下という暗黙のルールがあるほどだ。
かつての倭人に見るような「黥面文身」はもはや文献だけのものかもしれない。そう信じる人も少なくないはず。今日紹介する男の存在を知るまでは……。

作家、高村裕樹(たかむら ひろき)さん。今年56歳になる彼は、2010年に小説『宇宙旅行』で作家デビュー。これまでに4冊の本を出版している。現在は最新作『刺青師牡丹』がタトゥーの総合情報サイト、タトゥーナビに掲載されている。ただしそのこと以上に高村さんを特徴づけるのは、全身に隙間なく彫られたタトゥーの数々だ。

現代の女性たちにかぐや姫の自由奔放さを見るインベカヲリ★

Interview and text by Tomo Kosuga
[初出掲載:VICE.com日本版 2013年12月]

写真界の超新星、インベカヲリ★が今年11月、初の写真集『やっぱ月帰るわ、私。』を赤々舎より刊行した。本書に収録された全92枚の写真は、インベが2001年から撮り溜めてきた膨大な写真群から選び抜いた女子ポートレートだ。

インベカヲリ★初の写真集『やっぱ月帰るわ、私。』(赤々舎 刊)

「ポートレートは鏡。それはあなた自身である」——。ドイツ写真の第一人者、アウグスト・ザンダーがそう語ったかどうかはともかくとして、1822年の或る日、フランスの地でニセフォール・ニエプスがボトルやグラスの並んだ食卓を半日かけて撮った1枚から始まった写真技術が、古くは紀元前1世紀のミイラ肖像画まで遡れる肖像画の長い歴史を緩さぶったのは歴然たる事実。
それまでの時代ではおよそ本人の人相とは似ても似つかない美形男女の肖像画が自画像として認められたのだから、晩年の皺くちゃ顔をしたエリザベス1世や突き出た顎のマリー・アントワネットは写真技術が誕生する前に生まれてさぞかし安堵のため息をついていることだろう。

デコトラの田附勝、東北の限界集落に自らを「しまう」

Interview and text by Tomo Kosuga
初出掲載:VICE.com日本版 2013年9月


つい先月にも前代未聞の暗黒写真展を開催した写真家、田附勝がまたもやぶっ飛んだことをしたようだ。なんと、秋田県の中央に位置する上小阿仁村(かみこあにむら)の、さらに山奥にある八木沢集落を舞台に、写真展『みえないところに私をしまう』を開催中とのこと。
この写真展、東京から足を運ぶだけで軽く半日はかかる。誰がそんなところまで?という疑問は誰もがまず頭に浮かべることだが、そもそも八木沢集落は「マタギ集落」としても知られる土地なのだ。マタギとは、東北地方や北海道で古い方法を用いて狩猟を行なう人々である。これまで写真集『東北』や『その血はまだ赤いのか』、そしてタブロイド紙『5』にわたって、マタギと向き合って田附なだけあって、この村の訪問には運命的なものを感じ取ったようだ。
今回、秋田から東京に戻ってきたばかりの田附から届いた展示の光景とともに、田附から聞いた本展にまつわる「物語」を紹介したい。

「これは『KAMIKOANIプロジェクト秋田』の一環で……」田附が話を聞かせてくれた。「今年で2年目のプロジェクト。俺は今回、初めて参加した。もちろん村おこしの意味も含まれるんだけど、八木沢集落は今や限界集落。もう20人弱のお年寄りしか住んでないし、若い人が戻ってきて定住しない限り、村として変われる部分はそれほどない。だから俺は、この村が幸であれ不幸であれ、この現状をそのまま見せたいと思った」


田附は8月5日に現地入りした。「最初は上小阿仁村の旅館を提案されたんだけど、そこから八木沢までは車で30分近くかかる。それじゃ遠すぎるし、俺の今までのやり方って『デコトラ』でも『東北』でも〝見てみたい環境にとにかく自分の身を置く〟ってことだったじゃん? だから八木沢に泊まりたかった。それで村の公民館に泊まらせてもらって。毎朝おばあちゃんたちに挨拶して、時には一緒にご飯食べたりもしてたよ」
これまで『デコトラ』や『東北』といったように端的なタイトルが多く見られた田附だが、今回のタイトルは『みえないところに私をしまう』と、なにやら意味深だ。そのワケを訊くと、ひとつのストーリーを語ってくれた。
「展示の様子を見てもらえば分かると思うけど、村に寝泊まりした1週間で色んな人を写した。当たり前だけど、年寄りが多いんだよ。そんな彼らにとって、写真を撮られるのは稀なこと。それこそ昔だったら、写真屋さんに来てもらって撮ってもらうほど貴重なことだった」
「写真を撮らせてくれた人たちにはポラをあげたんだけど、受け取ったおばあちゃんの1人が箱を持ってきてさ。なにが入ってるのかと思ったら、出てきたのは写真アルバム。そうやって写真を大事に保管してるんだよね。それを見て、普段は日の目を見ない人生が〝しまわれてる〟んだなって。それで俺も今回、自分が八木沢を訪れて見たこと感じたことを〝しまおう〟と思ってさ。それでこういうタイトルなワケ」


展示場となったトタン小屋に入ると、中央に座した巨大な老人の顔クローズアップに思わず仰天するが、実は細部にわたって作り込まれていることが分かる。自然豊かな環境だけあって、木々や草花が目立つものの、中でも木々は写真のフレームを超えて繋がり合っていて、なにか超越した生命力が感じられる。これにはなにか意図があるのだろうか?
「八木沢集落にはほとんど人が残ってないんだけど、その反面、木がすごくてね。杉の木。人の住居に近すぎるってくらい、杉が家の周りに生い茂ってるんだよ。だから村の人に訊いてみたら、この辺りでは昔から木を植える習慣があったみたいでさ」

「秋田と言えば秋田杉が有名じゃん? 昔でこそ、木が大きく育てば、伐採して生計の一部にしていたんだろうね。でも今じゃ、それもほったらかし。人が減って、木が増えた。それが、この村の今なんだよね。その木を見てると、それ自体が人間のようにも見えてくるんだよね。木が人間化してるっていうかさ」
「写真を見てもらえば分かると思うんだけど、そういった木に、さらに今度はツルが巻きついてる。人間が持ち込んだ杉の木に、もともと住んでいた自然が対決しているようにも見えてさ。いろいろ思ったよね」

展示会場……というか展示場となった小屋は中が三畳ほどで、1人でも入ればいっぱいになる空間。その小屋を成しているのはトタン板だ。ずいぶん古びてガタガタの状態だが、田附にとってはかえってそれが良かったようだ。「この小屋はトタンで出来てるんだけど、トタンも人間と同じように朽ちていくんだよね。それって、この村にも通じるところがあるんじゃないかなって」

「この展示はこれから1ヵ月近くあるんだけど、誰かが見張ってるワケじゃないし、小屋も隙間だらけ。雨が降れば中の写真も濡れちゃうと思うんだよ。でも、もしかしたらこの場合はそれでいいんじゃないか?と思ったんだ。村も人も、トタンも写真も、みな朽ちていくものなんだってさ。それも含めて写真っていうかさ。そういう展示になればいいのかなって、今回は思ったんだよね」
デコトラ、東北、マタギ、縄文土器と、一貫して日本を写真に投影してきた田附勝。そんな彼が限界集落の村をキャンバスにした結果、生命の栄枯盛衰や悠久の自然、自然と人間、万能に見えて限りある人間の力、そんな状況においてもなお生き伸びようとする人々の生き様が『みえないところに私をしまう』という写真群に刻まれた。
なにかが「朽ちていく」感じにはもちろん経年劣化も含まれるが、時を経なければ出ない「味」というものもある。「侘び寂び」とはよく言ったものだが、日本ならではの美意識に則るなら、田附が本展で見せてくれるのは1つの村の歴史の断片であり、そこには光と闇の両面がある。そのどちらかに寄ることなく両面を露呈させたのが本展なのかもしれない。

思えば「デコトラ」にしても、時代と共にブームは去り、トラッカーたちは苦しい現実と向き合うことになるが、それでも「男」として惚れ込んだ愛車を維持するためにあらゆるものを犠牲にしながら、決して苦労は口にせず、愛車との人生を歩む。一見、新品に見えるデコトラも、パーツレベルでは廃車になったデコトラからの寄せ集めだったりもする。
『東北』にしても、期せずして田附は東北大震災の前後を写真で記録することになった。田附自身、自分が追いかけてきた東北の意味合いがまるで変わってしまったことに震災直後こそは戸惑いを感じていたが、その年にマタギの鹿猟再開を追った『その血はまだ赤いのか』、そして今回の秋田県の限界集落と、継続して現地を追いかけるなかから、なにかその写真に一環して通じるものがカタチになり始めている。

最後に忘れてはいけないのが、これは日本人にこそ見いだせる「日本らしさ」であり、そして目の前の現実を写し出す写真という媒体だからこそ、成し得る業だということ。
「日本」を追い求める写真家、田附 勝。その全貌を解き明かすにはまだまだ時間はかかるだろうが、この男なら一生かけて、その生き様を写真に刻み、そして我々に見せてくれるに違いない。
 
KAMIKOANIプロジェクト秋田2013】
「KAMIKOANIプロジェクト秋田」は、上小阿仁村の最奥地にある8世帯19人の小さな集落「八木沢集落」を主たる舞台として、そこに古くから伝わる伝統芸能、マタギなどの狩猟文化、祭事、食文化、生活文化など、地域固有の資源を最大限に活用しながら、現代芸術の新しい表現と結び、美しい山々が織り成す里山全体を文化芸術空間として創造していくプロジェクト。
http://kamikoani.com/

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田附勝公式サイト
http://tatsukimasaru.com/

大橋 仁、人類の明るい繁栄のため全財産をはたいて酒池肉林を撮り収める。

Interview and text by Tomo Kosuga
5b0e0190a8ec6dc605e1decb459cf9a2『凄絶ナリ』——。アラーキーこと、荒木経惟にそう言わしめた写真がある。赤く染まった写真は、一見では繊細で落ち着き払った雰囲気だが、よく見るとそれがシーツに染み渡った鮮血だと分かる。しかも異常な量の、人間の、血。それは、大橋仁の義父による自殺の光景だった。
第1発見者となった大橋、このとき19歳。救急車を呼ぶと同時に「目のまえ」の光景にカメラを向けた。その後、幸運にも一命をとりとめた義父の「つづき」を、大橋は追い続ける。カメラひとつで。この生死のジェットコースターをまとめたのが、大橋の処女作『目のまえのつづき』(青幻舎 刊)だ。
〝生きること、死ぬこと〟をきれいごとで描くことなく、裸一貫、カメラひとつでぶつかった。ページをめくれば、様々な感情に揺れうごく魂の咆哮が聞こえてくる。
そして次作『いま』(青幻舎 刊)が刊行されたのは、処女作から6年後のこと。10人の妊婦からオギャーと赤ん坊が飛び出すまでの1年8ヵ月と、幼稚園児たちの姿を写すことで〝いのち〟をシンプルに描いた。
『いま』の表紙を飾った1枚の鮮やかなブルーが、処女作『目のまえのつづき』の燃えたぎるレッドと対称的であることが象徴するように、この2冊は表裏一体の関係にある。しかし、一般的に直視しがたい、なんともダイレクトというか、いわゆるナマナマしい着眼点は変わらない。とくに出産シーンなんて、血みどろの赤ん坊がニュルルルッ!と出てくるところを一切の迷いなく(のように見える)、赤の他人の大橋が写真行為目的で撮ってるんだから、もうなにがなんだかワケが分からない。
それからさらに7年が経ったいま、満を持して大橋が新作『そこにすわろうとおもう』を赤々舎から発表。上記2冊でも十分すぎるほどハードコアな人だと思っていたのに、ここにきてその限界値を自らブチ破るような、トンでもない3冊目を誕生させた。柔かなタイトルとは裏腹に〝ああ、ハードコアってこういう意味だったっけ〟と唸らされるような激写、激写、激写。実に400ページ。A3サイズ。23,000円。どれをとっても、センセーショナル。
その全貌は、ぜひ本を手にとって確認もらいたいが、しいて言うなら、ニッポンとポルノを掛け合わせてできたエロザムライの股に生えた男性器型のサムライソード300本に、同じく300匹ものニワトリが無理強いされながら、甲高い鳴き声で「オーウ、ニッポルノー!」って奇声を発してる感じ。三国志の董卓もビックリの〝肉肉肉〟林ぶりである。トンネルを抜けるとそこは女性器が……いや、むしろトンネルが女性器だったのかも……。とにかく、この酒池肉林騒ぎのために大橋がバラまいた札束はというと、実に「ポルシェ」数台分。え、マジで?! そんなバブリーな響き、久しく聞いていなかった。
年の瀬も迫った12月末の凍えるような週末、彼のスタジオを訪問。生きること、現代アートへの怒り、解剖学、ご先祖様との意外な繋がり、そして新作のことなどなど、盛りだくさんの話を時間の許す限り、語り合ってきた1万字越えのロングインタビューをココに公開しよう……。