「3. BOOKレビュー」カテゴリーアーカイブ

白雪の青年が試みる、血と大地との言葉なき対話。

まるで白雪をかぶったかのように白く染まった、無垢の表紙。ひとたび開けばページの余白すらほっこりとして愛らしい。控えめだが、ずしりと響く装丁は積雪のよう。写真集『吹雪の日/凪の海』は1984年生まれの若き写真家、山下隆博さんが綴る、と或る2人の芸術家の目を通して見た、故郷・北海道とそこに暮らす家族たち、そして原発にまつわる作品だ。山下さんの言葉にヒントを得ながら、写真家が故郷から導かんとする物語を紐解いてみよう。
高校卒業までの18年間を北海道後志地方の岩内町で過ごした山下さん。「右を見れば羊蹄山をはじめとした山々が連なり、左を見れば日本海が広がっている。そんな風光明媚な場所」を故郷に持った。そして「私が生まれた1984年に隣の泊村では原子力発電施設の着工が始まった」という。これは現在において北海道唯一の原発である。
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2014_16ld© Takahiro Yamashita

高校を卒業と同時に上京、写真専門学校に入学。そこで出会った報道写真家、樋口健二が山下さんに大きな影響を与えた。「(樋口さんの)授業の中でしばしば出てくる原発労働者を取材していた時の彼の語る体験談は、どこか劇的過ぎて私の中に入ってこなかった」山下さんだが、「原発に対する彼の断固とした態度は私の中にとてつもない違和感として残ったのだろう。その数年後から私は社会的な視点をもって故郷の撮影を始めた」と冷静に振り返る。
ここで本作のテーマについて考えてみよう。山下さんの話から浮かび上がる物語のテーマは「原発問題」だ。それは山下さんが「二人の目を通して私は故郷を見ている。それは原発問題を考える時に重要な事なのではないかと考えている」と最後を締め括っていることからも汲み取れる。しかし実際に写真が語りかけてくることは、もうすこし複雑のようだ。
全体を通して印象的で記憶に残るのは「人々」であり「暮らしの断片」である。そこからさらに視点を引いた写真もあるが、まだ人々の生活圏内であり、人工物が混じる。この段階でようやく本書における原発の存在に気づく。「泊発電所」(とまりはつでんしょ)を、定点観測によって異なる時間に同じ構図と位置をとらえた4枚だ(そのうちの1枚が上で一番最初に紹介した風景写真である)。しかし一目でそれだと分かるような撮り方ではなく、よく目をこらして小さく見受けられる程度。さらに引いた写真になると、もはや誰もいない、白い雪に染まった海や山だ。
つまり山下さんが本作を通じて伝えたいことは、たやすく言えば「原発問題」だが、その眼差しはあくまで「原発の周囲」に向けられている。それは大自然のなかに生活を根ざす人々の変わらない日常ではあるが、しかし彼らの感情や表情、視線から文明的な色は見てとれない。
まるで大自然の木々や山のように穏やかというか、そう、自らを大地の一部として受け入れるような、あるいは大地と共に生きる覚悟とまでは言わないまでも、故郷で生まれ死んでいく生き物の目をしている。あたかも「ホモサピエンス動物園」に囲われた霊長類「ニッポンジン」の一実態を見せられるかのようだ。それというのも、上京で一度は部外者となり、改めて冷静に故郷と原発のありようを考えるようになった山下さんの視線が素直にあらわれた結果かもしれない。
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07© Takahiro Yamashita

冒頭でも触れた通り、山下さんが綴る物語にはもう一人、重要なキーパーソンが隠れている。それは北海道洋画壇を代表する作家の一人であり、ほかでもない山下さんの故郷にあたる岩内町にかつて暮らした「木田金治郎」なる画家だ。
「故郷に根ざし、漁師として生計を立てながらも懸命に自然の美しさと厳しさ、そしてそこに生きる人達の息づかいを丹念に描き、自身の画業を積み重ねてきた」木田金治郎に山下さんが初めて出会ったのは高校生のころ。美術の課外授業で、開館したばかりの木田金次郎美術館を訪れた。
そのときは「何だか夢を見ている様な不思議な感覚に陥った」ものの、それを「感じる」ほどには至らず、実際にきちんと正面から受け止めたのは、故郷の地を社会的な視点から撮り始めた4年後のこと。 久しぶりに訪れた美術館で、思いがけず1枚の絵の前で立ち止まる。
それは夕日の絵だったという。「どうしてなのかは未だに言葉で説明する事は難しいが、有り体に言ってしまえば『感動してしまった』という事なのだろう」 と語る。「感動した」ではなく「感動してしまった」と表すあたり、それはもしかすると未知なるものとの予期せぬ遭遇(アクシデント)であったのかもしれない。言葉では表しにくいものと遭遇し、それによって、山下さんのなかでそれまで凪の海のようにピタッと静止していたなにかが震え出し、覚醒したようだ。
画家、木田金治郎はある時期から「随分と変わり、自然の厳しさを感じさせる様な力強いタッチへと変わっていった」という。そのきっかけとして「多分、市街の8割りを消失させた1954年の岩内大火が大きな切っ掛けとなっているのだろう」と山下さんは推測する。
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2014_21lu© Takahiro Yamashita

「この経験で私の仕事はきっと変わる。今までは習作だった。焼けたものを記憶してくれる人もいるだろう。これからが本当の仕事だ」

木田金治郎

命をも脅かす予期せぬ災難と遭遇し、そこでの気づきが木田金治郎を第二の人生へと突き動かした。この意思表明とも言える作家の声明は半世紀の時を越え、現代に生きる山下さんの心になにかを残したようだ。それは東北大震災を経験してこその出会いだったのかもしれない。
「直接太陽を描くものが登場している様に、やはり故郷の夕日はどうしようもなく感動的なものなのだろうし、私自身も積丹半島(しゃこたんはんとう)から望む夕日は一番美しいとも思っている。あの光はまぎれもなく私の故郷なのだと根拠もなく思えてしまう」と山下さんは、心に触れた思いを素直に描写する。
樋口健二と木田金治郎の2人から問いかけのバトンを引き継いだ山下さんが、故郷を意識して撮り始めたのは2007年から。原発を抱える北海道の大自然、そしてそこに暮らす人々の有りよう。景色の大半は白くとんだ雪や冬空といった冬景色によって描かれる。
やはり山下さんの視線の先にあるものは原発のようで、そうではなかった。それは自然であり北海道であり岩内町であって、はたまた家族であり、そこに暮らす人々であり町であり、あるいは木田金治郎であって、積丹半島から望む夕日でありその光。そして樋口健二の導く原子力発電所がある「故郷」なのだ。これらが渾然一体となって重なり合い、ひとつの景色を作りだしている。
山下さんが素直な気持ちで「いつか起こってしまっても仕方がないと思っていた事が、私の故郷でなくて良かったと心の底から思ってしまった事を否定はできない」と語るほど、あの惨事が日本人の心に傷を残したことは間違いない事実だ。
それでも私たちの生活は続き、そこに天候の変化こそあれど、いつも陽は差す。冷たく凍える一日であったとしても、太陽は暖かく、自然はうつくしい。どんなことになろうとも人々は故郷に生きたいと願う。この写真家の写真はとても丁寧で、落ち着いていて、なにより、冷たさのなかに暖かさが感じられる。
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0021-2© Takahiro Yamashita

私が生まれたこの町を、丁寧に撮らなければいけない。そう画家の木田金次郎に教えられた

山下隆博 公式ホームページより

木田金治郎の決意表明を手がかりに、それをこの時代に置き換えて自らが示すべき道標を、大地の光と鼓動を合わせながら描こうと試みる。
吹雪と凪、自然と私たち、冷たさと暖かさ。まるで雪解けの瞬間のように、相矛盾するものたちの拮抗が刹那の時に刻まれ、いよいよ写真らしくなる。それは先人の芸術家が灯した生命の炎、そして北海道の大自然に凍てつくブリザードによる拮抗かもしれない。

壮大なものたちを理解するには、あまりにも私たちはちっぽけだ。そのことを忘れ、いよいよ科学が神の領域に近づこうとすればするほど、かつて手にしていたものはこの手からこぼれ落ちていくようにも感じられる。そこにきて、白雪のような1人の青年が挑んでいることはなにか、私たちが万物を理論と科学で把握しようとする側面とは異なった、自らの血と大地との言葉なき対話のようである。

きっとこの対話はこの写真家が生き続ける限り継続され、物語は大地を張る根のように無数に広がっていくことだろう。その先でいつかきっと青年自身が見出していくであろう、故郷の光。それが一体どんな色、どんな味で、どんな囁きなのか——。この若き写真家が写真の先に見つめるものを今後も追いかけたい。■

執筆:2014年11月25-26日/8時間/129リビジョン/3,441字

 

写真集『吹雪の日/凪の海』はリブロアルテより発売しています。ぜひ一度、お手にとって御覧ください。

リブロアルテ『吹雪の日/凪の海』販売ページ
http://www.libroarte.jp/takahiro_yamashita.html

また本作品は作家ホームページにて写真集未収録のものと合わせて公開されています。2007年時から2014年までの軌跡が一年ごとに公開されており、写真集と合わせて御覧いただくとより作家の意図に触れられます。

山下隆博ホームページ
http://takahiro-yamashita.co.uk/

※該当ページはメニュー部の「Country Sign」をクリックして表示

濱田祐史は少女に問われ、目に見えない光芒から天地創造の景色を暴露させる。

私たちの景色。風景でも街でも町でも都会でもなく、景色。その木々のスキマから、柵のスキマから、はたまた公園の遊具のスキマから、光の道筋が一線となって伸びている。それも、放射線状にいくつも。なにも写らないが、なにかが写っているような。写らないものがおぼろげに、写真に立ち篭もる。
写真家、濱田祐史さんにとって初となる作品集『photograph』は、いわゆる「光芒」(こうぼう)を題材にしたものだ。たとえば冬の早朝、高くそびえる山の上では朝霧に包まれ、雲から大地に向かって放射線状の光がもれることがある。そんな神秘的な光景を、もっと身近な風景に見出そうという試み。それが濱田さんの『photograph』である。そして「光芒が伸びた景色」が本書では、全編にわたって続く。

©Yuji Hamada, Courtesy of the artist and Photo Gallery International

実はこの光芒、濱田さんが作為的に生み出したものだ。霧の代わりに煙を焚き、長時間露光することでその存在を靄(もや)程度にまで深めた。しかしそれは長い時間を露光するから見出せるわけで、まさしく写真のなかでのみ存在する空間だ。撮影時においては濱田さん自身も、どこがどのように作用するか知る由もない。そこで光を探り当てるかのように、濱田さんは写真の画角に入り込み、様々な光を探したという。
この不思議な「見えない光芒探し」。きっかけを、濱田さんはこう語る。

2005年のある日の夕暮れに、私は公園で一人の少女と出会った。その子は手のひらに、熱心に光を当てていた。そして「この光はどうやって、どこから来るの?」と私に質問した。私は、太陽から放射されて長い距離をかけてここまで来ているのだろうと考えた。けれども彼女が求めている答えはそんなことではないように思えて、応えることができなかった。

(濱田さんが本書に寄せた原稿より引用)

 

©Yuji Hamada, Courtesy of the artist and Photo Gallery International
©Yuji Hamada, Courtesy of the artist and Photo Gallery International

「光よあれ」—。天と地を創造した神が初めて口にした言葉。神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

祝福の笑みが、一面にこぼれる。なんてことのない日常の風景が、あらためて景色となる。私たちは、心に描くランドスケープを「景色」という。かつて荒木経惟があらゆるものに景色を追い求めたように、それは得てして「世界」である。

1枚の四角い箱庭として完成される写真。ともすれば、たいへん狭く息苦しい空間だ。それを押し広げるのは、私たちの心である。濱田さんは見えないところに心を感じ、景色を切り取る行為を『photograph』でおこなった。ここで忘れてはならないのは、『photograph』に移し込まれた光芒を見ることが大切なのではなく、その先にある「見えないもの」への心である。

©Yuji Hamada, Courtesy of the artist and Photo Gallery International
©Yuji Hamada, Courtesy of the artist and Photo Gallery International

そのうちに、ヤコブは夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている」

旧約聖書創世記 28章12節

 
光芒への畏怖は『旧約聖書』のみならず、私たち日本人にとっても馴染み深い。
古くは『古事記』を紐解けば、たやすく天照大神(アマテラスオオミカミ)に行き着く。黄泉の国から帰還した伊耶那岐命(イザナギノミコト)は三柱の子を産む。それこそ月読命(ツクヨミノミコト)、須佐之男命(スサノオノミコト)、そして天照大神である。このツクヨミとは月であり、アマテラスとは太陽。

岩戸神楽ノ起顕(三代豊国)
『岩戸神楽ノ起顕(三代豊国)』 – Wikipediaより引用

この神話においてスサノオはトリックスターとして大暴れする存在だが、それに怒ったアマテラスは天岩戸(あまのいわど)に隠れてしまう。かくして世界は再び暗闇に覆われ、それに困った神々が天鈿女命(アメノウズメノミコト)に激しい踊りをさせ、それに興味をそそられ岩戸を開いたアマテラスを外に引き出す。
このとき、飛び出たアマテラスを後光が放射線状にえがかれる。このように、光とは尊く、そして畏れ多い超常現象であって、それは人類の何千年の歴史においてまず始めに語られてきた。
だからといって、大自然のなかで雲から差し込む光芒を撮れば、それが伝わるかといったらそれはただの自然写真だ。これは風景としての存在でなく、心で受け止める景色なのだから。写真家が写真家たらしめるのは、眼に見たものから、見えないものを引き出す行為であるのだから。私たちにとって馴染みある街並みに、煌々と照らされた光芒。そこにこそ、見出せるものがある。

彦星の 妻迎え舟 漕ぎ出らし 天の川原に 霧の立てるは

山上憶良『万葉集』8 1527

©Yuji Hamada, Courtesy of the artist and Photo Gallery International
©Yuji Hamada, Courtesy of the artist and Photo Gallery International

公園で出会った少女は、濱田さんが映し出した景色を見てどう感じるだろうか。人が光に感じるものは悠久の時と文明発展を経てもなにひとつ変わらない。人は言葉を得て社会を築き、科学とテクノロジーをもっていよいよ万物の起源に迫ろうとしている。その一方で、1人の少女の問いひとつにも答えるのが難しくもあるのはなんとも皮肉なものだ。

そんなとき、写真にできることはあるかもしれない。濱田祐史『photograph』に差し込む、写真のうえでのみ見出せる光芒。そこに、幾千年の時を経てなお私たちがまだ感じることのできる、天地創造の景色を見た。■

濱田祐史 写真集『photograph』は〈Lemon Books〉より700部限定で刊行。4種の箱から好きなものを選択できます。お求めは〈flotsam books〉にてどうぞ。

flotsambooks –  濱田祐史『photograph』販売ページ
http://www.flotsambooks.com/SHOP/PH01830.html

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戦場写真家が日常に見出した生命の狂気

9月1日、16時30分。丸の内線経由で東京駅に降り立つ。降りしきる雨とここ数日の寒冷が、早くも秋の到来を予感させる。この日、私はある男と丸ビル5階で落ち合う約束をしていた。
地下の直結通路から丸ビルのエレベーターに乗り込む。約束の時刻より、まだ30分は早い。しかし5階まで上がりきった16時36分、ケータイにメッセージが。「荷物がたくさんあるので中央のテラスにいますね」。すぐさま吹き抜けのテラスへ。その先に、大きく手を振る男の姿。亀山 亮さんだ——。
アフリカの紛争地帯を7年にわたって写した『AFRIKA WAR JOURNAL』刊行から2年。写真家、亀山 亮さんが新たな個展を開催する。この展示内容について話を聞かせてもらうため、わざわざ東京駅まで来てもらった。涼しげな演出がされたテラスに辿り着くとすぐに、亀山さんは謙遜に近いことばをいくつか続けたが、それに反して屈強な見た目の身体がずっしりとした独特の気概を臭わせた。
亀山さんの荷物が多いことも考慮し、周囲の店にも入らず、このままテラスで落ち着くことに。 たしかにずいぶん重装備の様子。剣道の竹刀袋も持っていたりと、なにやら異様な出で立ちだ。

「なんだかすごい量の荷物ですね」と尋ねると、「金沢いったあと、沖縄でワークショップに出て欲しいって頼まれて。せっかくだから、あっちの仲間と会って、そのあと魚突きしようと思ってさ。それでこの荷物なの」との返答。さきの竹刀袋には銛(もり)が収まっているらしい。

この数分前、亀山さんは東京に着いたばかりだった。金沢のギャラリー「SLANT」で9月6日から始まる個展のため、八丈島から飛行機でやってきたのだ。このあと、千葉にある実家に寄り、そのまま今晩には金沢へ向かうという。そのわずかな隙間を縫って、会う時間を作ってくれた。

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亀山 亮『Day of Storm』図録表紙

『Day of Storm』——〝嵐の日〟と題された今作。1冊目の舞台となった〝アフリカ=紛争地〟とは打って変わって、亀山さんの暮らす八丈島が舞台だ。展覧会に合わせ、この展示会場でもある金沢のギャラリー「SLANT」から図録が刊行された。
亀山さんはこの7年間、八丈島で暮らしている。八丈島は、東京都から南方に続く伊豆諸島のひとつ。行政区分は東京都八丈町となる。つまり東京の島だ。気象庁によれば、火山活動度ランクCの活火山。空路か海路で渡り、特産品はくさや、焼酎、黄八丈などなど。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

 「17歳の時、初めて(八丈)島まで遊びに行ってさ。そのとき、当時26歳くらいの男の人と島で仲良くなって……」。亀山さんが、八丈島に関わるようになったきっかけを話してくれた。

「17っていったら思春期じゃん? 社会の中で、うまくやれてなかった。その彼も、ドロップアウトして島に住み始めた人。それで、年は違ったけど意気投合して。彼はその2年後に死んでしまうのだけど、それまでは彼に会いに、ちょくちょく島を訪れるようになったんだよね」

1人の男との出会いから身近な存在になっていった島は、のちに亀山さんのパートナーとなる女性の故郷でもあった。偶然が偶然を呼び、やがて亀山さんは八丈島で暮らすことを決意する。

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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

「戦争のときは、撮るぞ!って意気込みでいくけど、(島での)私的なことの場合、撮っても撮らなくてもいいや、って感じで。撮らないときもあったし、人に見せたいとかでもなかった。ただなんか、ふとした瞬間にカメラを持っていて、ああ、いい感じとか。たぶん、それはカメラマン独特のものだと思うよね」
実際、今作『Day of Storm』は、亀山さんの眼に映った情景の数々である。
前半は、八丈島末吉地区で毎年8月15日に開催される盆踊りでの高速マイムマイム〟。なんともキャッチーな名だが、これはいわゆるマイムマイムを少しずつスピードアップさせ、しまいには身体も追いつかないほどのリズムに達するという、なんとも意味不明な新型ダンス。詳しくは分からないが、つい数年前、この島で独自の発展を遂げたらしい。
後半では一転し、亀山さんが〝いい感じ〟に触れてきた瞬間のスナップが断片的に編まれる。牛の目、無数のカモメ、生まれたばかりの赤ん坊、焚き火、袋をかぶった男、時に髪を逆立て、時にうつぶせる狂気じみた女性……。どれも日常のワンシーンを切り取ったものなのだろうが、意図的な編集もあって、どこか不吉さが宿っている。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

とは言え、極私的なスナップショットがつづくわけだから、解釈するうえでなにか頼るものが欲しい。そこで役立つのが、写真のひとつひとつに添えられたキャプションだ。たとえば八丈島の盆踊り。次第にテンポ早くなっていくリズムに合わせて踊り狂う人々が、これでもかと映し出される。
そのキャプションには「2日間、老若男女が櫓(やぐら)を中心に踊り回る」「子どもたちもノリノリ」「昼間、建てつけた櫓が倒れないか心配だ」などとある。夏祭りに夢中になる人々の様子は、喜びやおかしさを突き抜け、どこかルナティックに映る。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

読み込んでいくと、或る2枚の写真に添えられたキャプションに目が留まった。

幾人かの女子たちがマイムマイムの輪になりながら、黄色い声を上げている1枚には『「ハレ」の日』というキャプションが。また、その数枚あとには2人の男が腕相撲をとる1枚があり、そこには『「ケ」の日々』とある。


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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

「ハレ」と「ケ」。「ハレ」とは「晴れ」であり、儀礼や祭りといった「非日常」を表す。「ハレの日」は日常から一転して、衣服は「晴れ着」、食事は「モチや赤飯」、空間は「晴れ舞台」となる。対して「ケ」とは「褻」であり、「日常」を表す。「ハレ」と「ケ」では、言葉遣いや立ち振る舞いにも区別がある。
また「ケ」の日々が続けば〝気が枯れ〟る。これが「ケガレ」だ。ときおり「ハレ」(非日常)が挟まることによって「ケガレ」(気枯れ)は清められ、再び「ケ」(日常)の日々に戻るだけの精力がつく——。近ごろではつい忘れがちな感覚だが、それでも今なお我々の生活に根づいた伝統的なものである。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

この「ハレ」と「ケ」を頼りに、亀山さんが綴る「嵐の日」を振り返ろう。

前半に展開される「盆踊り」は明らかに「ハレ」だ。普段見せることのない感情をことごとく放出させるかのように、誰もが高揚しながら踊り狂っている(そしてそれは〝高速マイムマイム〟によって印象的に描かれる)。対して後半のスナップは総じて大人しく、日常の淡々としたリズムが目にとれる。言い換えれば前者は夜であり、後者は昼である。
その合間に挟まれるのは、「ハレ」と「ケ」のどちらにも属さない2枚の写真。1枚には、山を背景にした空き地に舞う、ふたつのゴミ袋が映し出され、そのキャプションは「身辺整理したものをゴミ捨て場に投げ捨てた彼は、数日後自ら命を絶った」。もう1枚は大きくブレた暗がりの山道。キャプションは「車で山道を猛スピードで駆け抜ける」——。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

この印象的な2枚は、もしかすると「ケガレ」と言えるかもしれない。
ケガレ、気枯れ、穢れ。それは日常生活でも蓄積されていくが、死や病によって決定的なものとなる。友人の死によって「ケガレ」を抱えた亀山さんが、ほとばしる感情に身を任せ、暴走する。
友の死の未練を乗り越える——。そうして見ると、二枚目のブレた木漏れ日は〝振りまかれた「清めの塩」〟のようにも見えるし、一枚目のゴミを投げ捨てるさまは〝塩を振りまく〟ようにも見える。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

そこまで話すと、亀山さんが応答してくれた。「(これまで自分が被写体にしてきた)戦争の究極は〝死〟でしょ? 僕は死に興味がある。僕の友達は、島で死んだ。僕の父も、会社でのストレスが原因で、僕が25くらいの時に自殺してしまった。日本は自殺する人が多い。年間3万人が自殺している。その手ざわりのない実感とか、実体のない感覚に、僕は違和感がある」
「僕の連れが、精神障害の施設で働いていてね。精神障害という括りもおかしい感じだけど、彼らとよく付き合うようになって思ったのが、自分がそれまで撮り続けていたアフリカのPTSDを抱える人たちの姿と変わらないってことだった。社会に適合する、しない。それは社会が決めていること。そういうのも含めて、分かる人には分かるけど、分からない人には分からないっていう写真の良さに委ねることにしたんだよ」

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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

亀山さんが続ける。「僕は死に興味がある。いくら金持ちでも、死んだら終わり。たまたま僕がやってきたことが戦争だったこともあって、常に現場が死に近かったこともあって、死について色々考える。たまたま僕の周りも、途中で死んでしまう人たちもいた。人間の狂気、戦争の狂気。〝普通〟と〝普通じゃない〟の違いもよく分からない。そういうことを等しく出してみたかった」
亀山亮、『Day of Storm』。これは〝戦場写真家による私写真〟のようでいて、そうではなさそうだ。戦争を駆け巡り、向き合ってきた死への尽きない問い。これが『Day of Storm』においても繰り返されるという点において、亀山さんにとってはこれもまた戦場写真なのかもしれない。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

命を枯らすまで自己存在の理由が問われる現代日本。右へ倣えのムラ社会は今なお国家において健在であり、単一民族の我々がそのなかにおいて生存と繁栄を継続するためには、ケとハレの循環、そのなかにおけるケガレの浄化作用が不可欠だ。それは列島を離れた島においても同じこと。そればかりか、島においてこそむしろ健在であることを、亀山さんは問いかける。
Day of Storm、嵐の日——。亀山さんが写真の先に見つめるものはアフリカでも八丈島でも変わらなかった。生と死の境における、命のふとした気まぐれさ。命のテンションは時に、ふとしたことがきっかけとなって緩み、そして時には途切れる。その弾ける瞬間に対する、正直な疑問。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

〝ハレ〟であり〝夜中〟の高速マイムマイムからは生命の狂気的な瑞々しさがこれでもかと劇的に映し出され、しかし〝ケ〟であり〝昼〟の八丈島では一転して、狂気的な死の香りが漂う。理屈や思考を超えた、コントロール不可能な生命のもどかしさ。
これから先、この男は冷たくも優しい眼でそれらを見つめ続けていくのだろう。たしかにそれこそ、写真でこそ映し出せる〝見えないなにか〟であり、写真家が見つめる写真の先にあるもののひとつ。そしてそれは、写真行為にこそ成し得る問題提起でもあるに違いない。
——クアアイナで買ったビールも手伝って、たがいに緊張もとけ、与太話になったところで取材終了。膨大すぎる荷物をふたたび背負った亀山さんは沖縄での釣りをただただ楽しみにしているらしく、竹刀袋に入った銛を強く握りしめ、「がんばってね!」と言い残し、すばやく去って行った。■

亀山 亮さんの個展『Day of Storm』が本日、9月6日(土)より金沢のギャラリー「SLANT」にて開催。本日19時より亀山さんによるトークショーも。また同日より富山県にて写真家・田附勝さんとの2人展『亀山の眼 田附の眼』も開催しています。
 

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亀山亮 写真展「DAY OF STORM」

2014年09月06日(土)ー 2014年09月28日(日)
会場:SLAN / 入場無料
http://www.slant.jp/

亀山 亮トークショー
『戦場カメラマンが見た パレスチナ、アフリカ』

日時:2014年9月6日(土)
18:30開場 19:00開演(約1時間)
会場:金沢21世紀美術館地下「シアター21」
石川県金沢市広坂1-2-1
入場料:500円
WEBSITE

 

60549田附勝・亀山亮二人展
「亀山の眼 田附の眼
みえるものとみえないものとの境界」

2014年09月06日(土) – 2014年11月09日(日)
ミュゼふくおかカメラ館
〒 939-0117 富山県 高岡市 福岡町福岡新559番地
TEL: 0766-64-0550
WEBSITE

 
 

男は女に景色を見た。それは自分であり、無であり、夢であった。

[掲載:2014年7月16日]

横田大輔さんの写真集『LINGER』。裏表紙に書かれた「彽徊」(ていかい)とは、「LINGER」の日本語に当たる言葉だ。モノクロの平面世界において、裸婦と心象風景が交互に織り交ぜられ、「彽徊」よろしく「行きつ戻りつ」する。
Linger-Daisuke-Yokota-Akina61
この光景をただ美しいと言い切りにくいのは、あと一歩で美しさの邪魔をする「写真の上のゴミ」の存在。これでもかと言わんばかりの存在感を放つそれらは、カメラのファインダー越しに見た世界に近いものがある。
言い得て妙。実際、カメラを覗いて反射鏡についたゴミやキズ、あるいはやはりファインダーについたゴミが拡大され、その目に突きつけられたときには、いざ現実世界を美しく描かんとする意気込みを損なわせるだけの理由となる。これが写真の現実といえば、まさしく。
Linger-Daisuke-Yokota-Akina4
しかし人生とは、暇つぶし。
ここはひとつ、横田さんが仕掛けたワナにかかってみることにしよう。そこから見える別世界というのも一興であるかもしれないから。
Linger-Daisuke-Yokota-Akina2
「彽徊」—。かの夏目漱石が提唱した語に「彽徊趣味」がある。生真面目な自然主義文学が盛んだった明治時代において、第三者のようなゆとりある気持ちから面白おかしい小説を書いたほうが良い、と。そういうモノの考え方だ。
ここで漱石の小説『草枕』を挙げたい。

世に住むこと二十年にして、住むに甲斐かいある世と知った。二十五年にして明暗は表裏ひょうりのごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日こんにちはこう思うている。――喜びの深きときうれいいよいよ深く、たのしみの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。かたづけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものがえればも心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足をささえている。背中せなかには重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えばらぬ。存分食えばあとが不愉快だ。

夏目漱石『草枕』より一部抜粋

これが「彽徊」だ。この世は崇高立派な思想と大義名分で溢れかえる。この世はインターネットの台頭によって、ますます僅かな歪みも否定され、品行方正な国民諸君であることが求められる。非国民たるレッテルは1ミクロンでも他とズレれば貼られてしまう。希望や可能性は情報の渦に巻き込まれ、ここではない彼方へ。

理想と現実を彽徊するうち、しまいに我々は価値判断すらできなくなった。しかし実のところ、右往左往するところに、我々らしさがある。彽徊とは煩悩であり、未練たらしさ。

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『LINGER』彽徊。1つの部屋に見るは、女と男の情交。うだるような湿気、コントラストの失った平面世界。繰り返し行為される、交わり合い—。そこに愛や恋といったパッションは感じられず、ただ別離を受け入れられない、未練たらしい彽徊のみ。

写真のほうはというと、煩わしいゴミでもって我々の関心を突き放す。そことここがまるで異なる次元であるかのように、二次元と三次元の違いをこれでもかと見せつける。横田さんの世界は、紛れもない写真である。

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恋する女と向き合い、いよいよ互いに肉体をさらけ出し、交わり合う。初夜が最高潮だとすれば、悲しいかな、数を重ねれば、情熱は薄れていく。

男というものは、性行為のとき、ふと冷静になるものらしい。狩りの時代の習性がまだ残っていて、それは敵の不意な奇襲に備えるためだそうだ。ようは男に愛などという言葉を口に出す資格はないということである。

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住みにくき世から、住みにくきわずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、である。あるは音楽と彫刻である。こまかにえば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌もく。

夏目漱石『草枕』より一部抜粋

ますます住みにくい世から、住みにくい煩いを引き抜いて、 ありがたい世界を目に見た通り写すのが、写真である、か。ただまのあたりに見れば、そこに画も生き、写真もく。
横田さんの写真において、人は景色である。『草枕』の主人公もまた、旅先で出会う人々を自然の点景に見立てた。奇しくもこの2人は同じ30歳。俗世間から逃避して非人情の旅に遊ぶ2人が見た先の世界には、やはり1人の女がいた。
非人情とは、義理人情の世界から超越し、それに煩わされないこと。情報化社会、管理システムの整いきった現代において、実に皮肉めいたリアルであり、この我々にとってこそ第1に熟考すべき課題である。そこにもはや女の姿なく、あるのは自分。そしてその自分とは無であり、夢。
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横田さんの『LINGER』を眼前にかまえたとき、ふと「写真よさようなら」と聞こえた気がした。その瞬間、丸顔丸眼鏡の男が妻と辿った旅を想起した。それは「センチメンタルな旅」と言った。
写真集『彽徊』は〈flotsam books〉にて購入可能。
http://www.flotsambooks.com/SHOP/PH01744.html
AKINA BOOKS – LINGER

prey for rain

アダムの肋骨から、イヴは生まれなかった—。知られざるもうひとつの創世記

[掲載:2014年6月8日]

赤いベルベットに、ゴールドで刻まれた「Bible バイブル MOMO OKABE」。その下には謙虚な佇まいをした「SESSION PRESS」の名—。
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写真家、岡部桃さんの『バイブル』。NYのインディペンデントパブリッシャー〈セッション・プレス〉から今月発刊された、岡部さんにとって3冊目の写真集だ。
ハードカバーの大判写真集にしては、なかの写真は予想を裏切るほど荒削り、よく言えば大胆だ。ページを開ければ、裁ち落としの大きな写真が眼に入ってくる。レンズと被写体のあいだをカラーフィルターが介しているのか、写真は赤、青、橙、黄、緑、紫と、いわゆるレインボーカラーの各色にそれぞれ染まっている。
被写体として映り込むのは、東北大震災の被災跡、ゲイパレード、インドの街並み。そして性転換手術を行なっている人々のヌード、上半身は完全に男性へと成り代わった元女性たちのヌード……。詳細は分からなくとも、「LGBT」をテーマしていることが分かるストレートスナップが続く。
LGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの人々を指す頭字語だ。そし岡部さんの写真における虹色のフィルターは、LGBTの社会運動を象徴するレインボーカラーの構成色であることに気づく。
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発行元の〈セッション・プレス〉には、こんなディスクリプションが掲載されている。原文は英語だが、日本語に訳した。

『バイブル』は岡部とその恋人、友人との日々、その揺るぎない複雑さを証明するものである。偽りでない自分自身を遂行することと共に、岡部は明らかにする。
「悲しく、しかし美しい光景。それは、長い長い時の経過と、彼らのトラウマ的な過去との辛い葛藤に打ち勝った時、ようやく理解できるものなのです」—。
岡部作品の誠実さと奥深さは直感的なものだ。つまり、あたかも彼女が万華鏡のようなハートに窓をこしらえたかのように、彼らが共有する疎外感のテンションのうちに、ひとつの美しさをほどくのだ。

 Session Press HPより引用

「偽りでない自分自身を遂行する」とあるように、岡部さんの「恋人」や「友人」は性別の壁を乗り越えて本来の自分自身を手に入れるため、その体にメスを入れた人々なのだろう。そして「悲しく…」以降の下りは、東北大震災の被災地と被災者を、ひいては前述の「恋人」や「友人」の存在も重なっている。「万華鏡」は虹色に染まった写真を指しているのかもしれない。
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ここ日本においては、いまだにゲイやレズ、トランスジェンダーの人々が、いわゆる「オネエ」という〝お笑いジャンル〟で理解されている。商品価値として「需要があるかないか」という物差しでしか測られていないのだ。
話は逸れるが、私はVICE YouTubeチャンネルで『WE ARE OUT!』というシリーズをプロデュースした。これは日本のゲイカップル(英語で〝ゲイ〟はレズも含まれる)の等身大の生活を見せることから、「もうゲイかノンケかを気にするような時代じゃない。あなたの隣にいる人の、心の性別は多様であって然るべきなんだよ」ということを伝えたい—。そんなコンセプトから制作に至ったものだ。

このシリーズは当初の予想を大きく上回るカタチで受け入れてもらえた。それが意味するのは、やはり日本ではまだまだ、彼らの社会的認識は低いということ。
それでも彼らは明るく振る舞う。少なくとも我々が目にする彼らの姿とは、そうしたものだろう。社会に受け居られるイメージとは、いつだって希望に満ちあふれていて、それはビジュアルとしても明るく美しいものでなければならないからだ。
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その点でいえば、岡部さんの写真はその逆を行く。
ディスクリプションにあった「万華鏡」とされる虹色のフィルターはいわゆる「美しさ」とは程遠く、まるで〝色眼鏡〟をかけたように、世の中を偏った視点から見ているように感じられた。だから私には、その色たちが暗く感じ取れた。まるで「メディアがどれだけ誠意を持って〝私たち〟を捉えても、それすらほんの一部に過ぎない」とつぶやくかのように—。
実際、そうなのだろう。本書で時おり挟まれる、性転換手術をした人々のヌードを見たとき、重々に納得させられた。過程こそ女性らしさを残すが、完全に済んだ人の上半身は男性そのもの。しかし股には、女性器が残るのだ。男性にも女性にもなれない、その決定的な壁—。これは、いくら言葉で伝えようともきれい事になってしまうこと。それこそ写真というメディアにできる、揺るぎない事実の暴露。
もしかすると「色眼鏡」は、岡部さんの眼にかけられたものでなく、私たち読み手にかけられたものなのかもしれない。実際、私たちがテレビで彼らを見かけるとき、色眼鏡で見ているのだから。そんな皮肉にも感じられた。
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それでも岡部さんの写真は穏やかだ。性器や手術過程を見せるなど過激な光景はあるものの、感情の波がコップの縁からあふれ出すことはない。極限で留め、あとは社会が揺らすのを待つしかないからだ。自分であふれ出しても、そのあふれ水は冷たい社会にすぐ乾かされてしまうことを、岡部さんはやはり直感的に理解している。その忍耐の日々を、震災の跡に重ね合わせたのだろう。
実にコントラバーシャルなテーマを、繊細かつ奥深い表現力で描いている。それ故に、岡部さんの作品がここ日本で正しく評価されるには、もしかするとまだ時間を要するかもしれない。表紙を包み込む、赤いベルベットの重々しさと気品さは、岡部さんの心の覚悟。
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『バイブル』—。実に挑戦的で、素敵なタイトルじゃないか。いまこの時代を変えることより、ゲイもレズも登場しない聖書そのものを作り直そうという、壮大なスケールが感じ取れる。肉体をいじることは、ともすると創造主への冒涜でもあるかもしれない。しかしその一部始終すら世に露呈させることで、彼らは自らのアイデンティティを歴史に刻もうとしている。
いや、ちがう。彼らは、自分たち独自の創世記と神話の断片を物語ろうとしているのだ。その視点から見るなら、本書で服を脱いだ元女性たちのヌードは〝肋骨からイヴを生み出さなかったアダム〟である。このパラレル神話にイヴは存在しない訳だから、ヘビに惑わされることもない。平穏と静寂の理想世界は、ついに、その世界にこそあるのかもしれない。
写真の世界は昨今ますます窮屈さが増している。「知る人ぞ知る」そんな世界になりつつあると思う。そんななか、狭いパイを取り合うがために、定型とも言えるような、似た写真が乱産されている傾向も感じる。その状況を打破するうえで、岡部さんのような、物事の起源から覆すようなエネルギーと壮大なストーリーは頼もしい。悲しさや絶望を抱えながらも、その先に希望を見出す強い生命力—。そのほとばしる一線の行く末を、これからも期待して追いかけたい。そして彼らが続けていったその先で、真に「美しい光景」に辿りついた岡部さんとその恋人、そして友人たちを祝福できる日を、私はこの目で見てみたいのだ。
 
最後に。奇しくも今年の木村伊兵衛写真賞に、森 栄喜さんの写真集『intimacy』が選ばれた。森さんとその彼氏の日常を続いた本だ。LGBTをテーマにした作品が脚光を浴びたこともあって、これを希望と捉えることはできるだろう。私もできればそう信じたい。しかし敢えてクギを刺すなら、この授賞式の選考委員、写真家は長島有里枝さんが残したコメントが鋭い内容である。これを最後に紹介しよう。

「ジェンダー的な観点から森さんの写真を見る事で、私が一番危惧しているのは、森さんの写真がそのような視点からしか評価されないのではないかということです。どうか広い視野で森さんの写真を皆さんで評価して頂いて、またこれからも活躍をささえて頂ければと思います。

『写真の鉛筆』より引用

岡部桃さんの写真集『バイブル』は〈flotsam books〉にて販売中
http://www.flotsambooks.com/SHOP/PH01687.html