「森村 泰昌」カテゴリーアーカイブ

森村泰昌はホンモノを観ないことで培える感受性を芸術に〝ヘンタイ〟する

Interview and text by Tomo Kosuga
yasumasa-morimura芸術家、森村泰昌は〝空想が好き/芸術は食べられる〟という思想のもと、ゴッホの自画像や名作『モナ・リザ』、フリーダ・カーロの自画像、挙げ句の果てにはピカソの絵といった絵画のモチーフに〝変態〟する(つまりゴッホやモナリザに扮装するってことだ)。
しまいには二次元の世界に飽き足らず、マリリン・モンローやブリジット・バルドー、マレーネ・ディートリッヒといった三次元で活躍した女優に扮するシリーズまで展開。最近ではチェ・ゲバラやヒットラー、毛沢東といった歴史上の男たちにまで手を伸ばしている。この24年間をひたすら扮装し続け、もちろん今後もそうしていくのであろう様子を眺めていると、森村泰昌という存在そのものが曖昧になっていく。果たして森村泰昌が目指す先にあるオリジナリティとは?
今回、森村泰昌が抱く女装や、同じくマリリンやその他有名人に扮装するKeiichiの作品『100K』を見てもらうなかで、その曖昧な人物像をなんとかフルーチェ程度まで輪郭づけようと努力した。
——個人的に森村さんの作品を初めて観たのは1998年の個展『空想美術館』でした。そこでゴッホの『ひまわり』のことも知って。つまり、オリジナルよりも森村ver.と先に出会っている。ここで面白いのは、自分の中では森村ver.の方がオリジナルよりもホンモノらしく感じるということです。
森村泰昌: なるほど。作品作りを始めた当初こそ意識していなかったものの、結果的に自分の作品は観客をナビゲートするスタイルになっていたんでしょうね。それは観客の皆さんから教えられたことでした。私の写真はよく《モノマネ》という言われ方をされます。しかし観客の反応を知るようになってからは、単純に似てるだけで面白いというわけでもないのかなと、そう思うようになりましたね。
——既存の美術をモチーフにするというスタイルが生まれたきっかけは?
若い頃は抽象絵画を描いていましたが、どうも作品から逃げている部分があると思っていたんです。そこで思い切って絵画から写真に切り替え、自分自身をテーマにしてみようと。
しかし、今でこそセルフポートレート形式の作品も色々ありますが、20数年前だとさほどなかった。そんな時代に、自分の顔を合成した作品を闇雲に制作したところで〝東洋の得体も知れない男の顔が合成されたヘンテコな作品〟に過ぎない。それでは表現として成り立たないと思った僕は、美術作品というイメージのうえで表現する必要があると結論づいた。その結果、美術史というテーマに行き着いたんです。
そうして1985年に『肖像・ゴッホ』という作品で初めて、美術絵画に自分の顔を合成するという手法を試みました。誰もが知っている美術のひとつであるゴッホの作品に自分の顔が付け加えられることによって、当時無名だった大阪人の顔がムリヤリ芸術化される。そこに面白さを見出せて、ようやく手応えを感じたようです。
 左から順に:『はじまりとしてのモナ・リザ』(1998年)、『身ごもるモナ・リザ』(1998年)、『第三のモナ・リザ』(1998年)

左から順に:『はじまりとしてのモナ・リザ』(1998年)、『身ごもるモナ・リザ』(1998年)、『第三のモナ・リザ』(1998年)

——美術作品に森村さんの顔を当て込んだだけなのに、親しみの度合いはまるで変わってきますね。アート本来の高い敷居が一気に低くなるというか。
たとえば、鎖国時代から一気にグローバル化を迎えた明治時代の話をします。その当時の芸術家にはパリなどへ留学する人が少なくなった。彼らが海外で芸術を学び、そして帰国してから描いた絵というのは、表向きこそ印象派風である一方で、人物や風景は日本人の感性や日本の土壌から成り立っているんです。これは僕がやっていることと近くて。つまり〝登場人物は東洋人、だけどテーマは西洋〟という奇妙な組み合わせ。
こうした西洋・東洋間における葛藤こそ、日本ならではの立派な文化だと思うんです。それを受け継いでいきたいと思うし、少なからず自分は作品を通してそれを果たせていると思っています。
西洋の絵画だからといって外国人モデルを使うのではなく、あくまでも東洋人としての自分自身を使う。そうすることで、現代における日本人の葛藤が見えてくる。その葛藤を日本国内だけでなく、世界の人たちに観てもらえるような表現へと昇華することが大事だと考えています。
——その一方で、森村さんの作風にはあらゆる芸術作品を片っ端から模倣できる強みがあります。
普通、時間というのは〝過去から現在、現在から未来〟という風に規則正しく流れていると考えられてます。そして、古いモノが常にオリジナルであると。だけど本当にそうなのかと僕は思うんです。少なくとも、僕たちの時間感覚はそうじゃない。例えば若い子が音楽を聴く順というのはたいてい、自分たちの時代のポップスから始まって、だんだんと昔の音楽へと遡っていくでしょう? 僕自身、作品でテーマにするオリジナルの作品というのは後々になって見ることが多くて。
ゴッホやマネの作品を初めてオルセー美術館で観たのも、自分の作品を作ってだいぶ経ってからなんです。僕が参照にしていたのは図録だけで。或る人はその手法を「原作を誤解する恐れがある」と言うかもしれないけれど、見ることで形作られる感受性もあれば、その逆も然りで。
パリに住んでいる人たちは、オルセー美術館でホンモノを観ることで培える感受性を大事にすればいいし、それがなかなか出来ない日本人は〝観ないで培える感受性〟を大事にすればいい。色んなケースがあって良くて、そのどれが正しいというわけでもないと思いますね。つまり、自分が置かれている環境を大事にしたいんです。そうして生まれてくるモノこそユニークさだと思います。
——芸術に時間軸は関係ないと。その原理だと、被写体が森村さんじゃなくても成立しそうですね。
僕にとって、作品は〝ステージ〟なんです。そこに森村という登場人物がいて、さらに別の登場人物としてゴッホやマリリン・モンローが1人ずつ登場してくる。彼らと僕が出会うところから物語は始まるんです。その物語が舞台を構成し、いわばその舞台そのものが作品として成り立つ。
ともすれば森村という存在は当然そこに不可欠ですし、逆にもし僕ではない異なる俳優が出るとなると、その舞台は全く異なるものになってしまう。だから森村劇場とアナタの劇場は全く別物なんです。観る人に森村劇場を押しつけるつもりは毛頭なくて、あくまでも、森村が登場した場合はこうなりますよ、もしあなたが登場したらどうなるんでしょうね、という問いかけに過ぎない。
——その舞台で繰り広げられる物語にはあらかじめ筋書きがあるんですか?
舞台の上で僕とモチーフとが出会う時、そこにシナリオはありません。あくまでも偶然の産物。出会ってみないと分からない。そういう意味で、僕の作品は極めてナマモノなんです。逆に計画し尽くされていては、加工食品みたいで面白くない。故にパフォーマンス的要素はあると思います。
——『モナ・リザ』シリーズのように、森村さんの作品にはモチーフにおける置き換えが多重に生じたがためにオリジナルの原型を留めていないものも見受けられます。それは森村劇場が〝原作ありきのステージ〟から〝森村独自のステージ〟へと進化していった、そう捉えることができそうです。
置き換えるという行為は、誰もが自然とアタマの中で繰り広げているプロセスだと思うんです。つまり、無から有は生まれない。だけど既存のなにかを何度も何度も置換していくうち、別のなにかへと変化していくことがある。ゼロからいきなりそこには辿りつけない。そう考えると、オリジナルの作品が見えなくなっていくのもアリだなと思いますね。
 『セルフポートレイト(女優)/黒いマリリン』(1996年)

『セルフポートレイト(女優)/黒いマリリン』(1996年)

——ここ最近の作品『なにものかへのレクイエム』は今までの『女優シリーズ』から打って変わって、歴史上の男性像に扮装した内容ですね。
今回の『なにものかへのレクイエム』は、現実世界、つまり政治や戦争のなかで輝く男性像を追っています。その一方で、過去にやった『女優シリーズ』は、映画という虚像の世界でこそ女性は最も輝いて見える、という考えをもとにやっていたものです。
——今まで『女優シリーズ』ばかり観てきたせいか、てっきり森村さんは女装に快感を見い出しているのかと思っていました。
よく訊かれるのが、「マリリン・モンローになった時はマリリンの気持ちになるんでしょうか?」という質問。でも、そんな単純なものでもないんです。
例えば過去に、森村版ブリジット・バルドーがハーレーに乗っている、というシチュエーションで撮影したことがありました。これは屋外撮影だったので、たくさんの人が見ている中での撮影。その真ん中に立ってその世界を傍観できるのは、ブリジット・バルドーになった自分しかいないんですね。その瞬間、これが女優というモノなのか、と悟りました。
例えば王様や映画監督といった人々はそうしたポジションを権力で保つけれど、女優はただそこに居るだけで成り立ってしまう。そしてそれは〝王女〟でも〝マリリン〟でも〝女性〟でもなく、あくまで〝女優〟という概念なんです。だから僕は、女優を演じるうえで固有の人物に成り切るのではなく、あくまでも〝女優〟というポジションに立つことを意識しました。
そういう意味では、男性を演じるのも女性を演じるのも、或る意味では大差なくて。衣装やメイクといった表面的な特徴はそれぞれ性を表しているかもしれませんが、その一方で〝なにかに立ち向かう意識〟が必ず含まれている。
例えば女優たちが非常に柔らかな女性の衣装を身にまとっていたとしても、考え様によっては人々を魅了する戦の武装と捉えることもできる。そういう意味では、非常に男性的で。逆に政治家や革命家にしても、衣装になんらかの魅せる要素が含まれていれば、女性的な要素を孕んでいると考えられます。そうした錯綜もまた、僕のテーマのひとつなんです。
——先ほど「芸術に時間軸は関係ない」という話が出ました最近、Keiichi Nittaというフォトグラファーがマリリン・モンローなどに扮装した作品を手がけています。森村マリリンを知らない人がKeiichiマリリンを見た場合、可能性としてさらなる倒錯を生み出す可能性もあると思います。こうした現象をどう受け止めますか?
そういう経験は今までもたくさんありました。シンディー・シャーマンも、僕と同時期に同じようなことをやっていましたしね。最近ではインドネシア人のアーティストが僕の『モナ・リザ』シリーズの、おなかに子供を宿した作品をベースに絵を描いたらしいです。
もしかしたらこうした現象はそれほど珍しくないのかもしれません。旧約聖書に出てくる場面なども、多くの著名な作家が描いていますよね。マリア様だけでも、どれだけの数が描かれてきたことか。
同様にマリリン・モンローも、現代という時代の重要人物の1人なんですよ。ウォーホルだって、彼なりの手法でマリリンをテーマに作品を作っている。そういう意味では、マリリンやマイケル、あるいはチャップリンなどといった人々が題材としてアーティストに扱われるのはそう珍しくはないということで。
人は彼らのような、時代のアイコンになにかを感じるのでしょう。現代ではアニメにそれを見いだす人も出てくるかもしれません。そういった意味ではこうした現象が起きても不思議ではないと思いますね。