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パレスチナ、イラク、アフガニスタン…紛争地を駆け巡った男が日本の 孤独死 に見たもの。

Interview and text by Tomo Kosuga
[初出掲載:VICE.com日本版 2014年3月]

「命を懸ける」——。言葉で言うのはいとも容易いこと。実際、それを実践した人間がこれまでにどれだけいただろうか。今日ここで紹介するのは、自らが信じるものに命を懸ける人物だ。

その男、郡山総一郎が命を懸けて信じるものとは「写真」である。それがどれほどの覚悟なのかって? かつては紛争地でシャッターを切り、かつてはイラクで拉致され、かつては「写真と生活、どっちが大切なの?」と問う伴侶に「写真」と即答して天涯孤独の身となった、とでも言えば伝わるだろうか。実際、いま並べたことは郡山総一郎が体験してきたことである。

1971年生まれの郡山が初めてカメラを握ったのは2000年のこと。29歳でスタートという、いわゆる遅咲きだ。しかし行動力が並じゃなかった。この男が最初の被写体に選んだのは、近所のお花畑でも自分の友達でも彼女でもなく、民衆抵抗運動が再燃して激しく動き始めた頃のパレスチナだったのだから。

パレスチナ、イラク、アフガニスタン、タイ深南部——。世界の紛争地を駆け巡ること11年。立派なフォト・ジャーナリストとなった男は或る日、転換期を迎える。東日本大震災だ。それまで日本なんて見向きもしなかったこの男は、まるで覚醒したかのように日本を撮り始める。被災地となった東北地方はもちろん、いま彼が夢中で追っているのは「孤独死」。

無垢な笑顔がひときわ目立つこの男、きっと面白いエピソードを語ってくれるハズと突いてみると、出るわ出るわ、写真を巡る物語の数々。東北大震災直後に向かった福島での奮闘、実際に清掃業に従事しながら写した孤独死、そして2004年にイラクで体験した恐怖とそこに至るまでの紛争地での11年……。計13,000字、14ページに及ぶ「郡山総一郎 人生劇場」をここに披露しよう……。


写真集『FUKUSHIMA × フクシマ × 福島』(新日本出版社、2013年)より

——東日本大震災から3年が経ちますね。郡山さんは福島を題材にした写真集を昨年末に出されてましたけど、初めは仕事で撮り始めたんですか?

郡山総一郎:そうですね。地震が起きたとき、僕は新宿の自宅にいたんです。さあ、週刊誌の張り込みに行こうと立ち上がった瞬間、大きく揺れた。調べたら、宮城が震度6強。これは被害が出ているはず、行かなきゃと思って。でもクルマが必要だと。「フライデー」なら、張り込み車輌をいっぱい持っている。電話しても通じないから、行っちゃえと。護国寺まで10キロを走って40分。7階まで駆け上がって「編集者1人と記者ちょうだい」と頼んだんです。地震発生から2時間後には現地へ向かっていました。

——行動が早いですね。そんなに早い動きだと、福島に向かう道程で入ってきた情報はまだ少なかったんじゃないですか? 車の中ではどんなことを考えてました?

1号機の爆発は後で聞いて知ったんですけど、そのとき頭に浮かんだのが酪農家だった。しかも牛のいない牛舎。それが撮りたいと思ったんです。でも福島にはツテがない。そこで、JA(農業協同組合)関係のカメラマンに紹介してくれと頼んだら、浪江町津島の酪農家を紹介してくれて。4月には現地入りしたんです。そして1番怒られ、追い返された酪農家さんのところに2ヵ月半もお世話になることになりました。


写真集『原発と村 Vanishing Village』(新日本出版社、2013年)より

——その酪農家さんからは、なんて言われたんですか?

「忙しいから帰ってくれ」と。僕の前に外国メディアが入っていたみたいで。それに対して怒ったところに、僕がやってきた。入りは良かったんですけど、「撮らせてもらっていいですか?」と言い出したら怒り始めた。それから2、3日、福島市内のホテルから1時間かかけて通い詰めて。すると3日目、昼時に「メシ食ったか?」と訊かれた。「どこ泊まってんだ?」「福島市内です」「遠いな、うちに泊まってけ」と。そのまま2ヶ月半、居座らせてもらったんです。


写真集『原発と村 Vanishing Village』(新日本出版社、2013年)より


写真集『FUKUSHIMA × フクシマ × 福島』(新日本出版社、2013年)より

——当時、津島の放射線量は?

当時は飯舘村の線量が高い高いと言われていたけれど、そのすぐ側にある津島の放射線量は飯舘村の3倍だった。空間で30マイクロシーベルト。999マイクロシーベルトまで計れる線量計が、軒下では振り切れた。つまり1ミリは超えていたんです。それでも住民は現地の線量を全く知りませんでしたね。

写真集『FUKUSHIMA × フクシマ × 福島』(新日本出版社、2013年)より

これは1年遅れの結婚式。この方の娘さんは3月12日に式を挙げる予定だった。それが震災で出来なくなって。1年後の3月13日に式を挙げたんです。これはちょうどリハーサルの最中ですね。「気持ちのピークは11年だったのに、すっかり1年遅れてしまった。でもやっとできて安心した」と仰ってました。今はお孫さんも生まれて。福島に戻って生んだんです。


写真集『FUKUSHIMA × フクシマ × 福島』(新日本出版社、2013年)より

これは作業員さんたち。3月11日、彼らは原発内にいました。当時はヤクザとの繋がりがどうだとかで、作業員さんが叩かれたじゃないですか。でも実際は、他から来た人たちなんて事故後すぐに逃げちゃった。それでもやると言ったのは地元福島の人たち。自分たちは線量いくら食ってもいいからって。このうちの2人は100ミリシーベルトの限界をとっくに超えていて、1人は積算線量計で268ミリ食ったって。

ここには映ってないんですけど、仲良くなった方には社員さんもいます。或る方は震災当時、吹き飛んだ建屋の破片をどける作業をしていました。その前には線量を図る作業を独りでされていた。たった20分で5ミリの線量を食ったとか。それでも瓦礫をまず片付けないと、作業員が中に入れない。本来はクレーンで作業するところを、時間がないからと手作業でやっていたんです。そして彼も線量がパンクしたと。

——皆さん、体調はその後どうなんですか?

この写真に写っていない人がいるんですけど、目の前で3号機からピンク色のキノコ雲が上がるのを見た人がいます。彼は医者から、甲状腺にポリープができていると言われたみたいですね。


『Apartments in Tokyo』より

——この3年で被災地を追いながらも、新たに追いかけているテーマが「孤独死」だとか。

そうなんです。最初は週刊誌の編集者から「郡山さんにもってこいの企画ありますよ」と振られて、2013年の5月と8月に取材したんです。すると、これは面白いなと思い始めて。清掃会社の社長に頼み込んで、現場が出たら行かせてもらうことにした。でも連絡はいきなり来るから、週刊誌の仕事と同時進行ができない。だから一時期は週刊誌の仕事を辞め、その清掃会社にバイトとして雇ってもらったんです。見積もりの時には撮影、それが終わったら作業をする。そういう感じでやるようになりました。

——確かにそれが手っ取り早いけど、これまた極端な! 清掃会社で働いてみて知ったことは?

印象に残っているのは、ニオイとかじゃない。時間が止まった気配というか。さっきまで人がいた感じ……たとえば友達が買い物に出ていて、誰もいない部屋に上がり込んだ感じというか。そういう雰囲気なんです。


『Apartments in Tokyo』より

——郡山さんは紛争地で悲惨な光景を数多と見てきたと思います。そんな郡山さんの目に孤独死の現場はどう映りました?
今までにないくらい「リアルな死」というか。孤独死した人のことは概要しか知らないはずなのに、作業を始めると人物像がだんだん出てくる。たとえばどんな本を読んでいたか、どんなものを食べていたとか。部屋に残されたものが物語ってくるんですね。
初めこそ、目がいきがちだったのは人型に残った跡とか、床に残された体液。でも次第に、そういうものは撮らなくなっていって。代わりにベッドのシワとか、テーブルに残されたものとか。そういうものが気になるようになりました。あと清掃作業って、どんな部屋でも大体4時間で跡形もなくなるんです。その儚さ。撮る意味はあると思いました。


『Apartments in Tokyo』より

たまに現場に遺体を引きずった形跡があって。今年2月アタマに行った現場は、故人が150キロの体重だったらしく、ベッドからリビングまで警察が引きずった形跡があった。抱えられなかったんだなと思って。他にも、日にちの経った遺体を部屋で落としちゃったのか、タプタプに腐った内臓がピチャッ!と飛び散った跡とか。とにかく気配はいろいろ残っていて、それに驚きましたね。

今じゃもう、孤独死の部屋という意識もなく淡々と撮っています。もちろん部屋に入る前には訊きますよ、孤独死した部屋なのかどうかって。自殺の現場は撮らないから。でも部屋に入ったら、もう忘れている。ニオイも気にならない。


『Apartments in Tokyo』より

——実際に清掃の現場に就いてみて、なにか感覚的に身についたことってあります?

孤独死しがちな部屋、というのが分かるようになりました。清掃の依頼が入って、現場近くまで行くじゃないですか。どの部屋か知らなくても、外から窓を見れば分かる。あー、あそこかって。そういう部屋は他人を寄せ付けない雰囲気があるんですね。窓に段ボールを貼っていたりだとか。

それから遺体は腐敗しているケースが多いので、部屋に人型の跡が残っていることがあるんですけど……

——えっ、人型!? それって〝体液〟が床に染みついてできた跡……ですか?

そうですそうです。その人型の8〜9割が、頭を玄関に向けているんです。苦しくて倒れたあと、外に出ようとするんでしょうね。そして力尽きると。

それから孤独死って天涯孤独のイメージがあるじゃないですか。僕は20〜90代まで見てきましたけど、実際は違うんです。大半のケースにおいて親族は周りにいて、しかも近所に住んでいる。或る現場の男の子は、母親が徒歩10分圏内に住んでいた。だけど2ヵ月間、彼の死に誰も気づかなかった。座った状態でミイラ化していたらしいですよ。それが見つかった理由にしても、おそらくは〝体液〟が下の階に染み落ちて発覚したんじゃないかと思うんです。


『Apartments in Tokyo』より

或るNPO団体の計算では、23区内で1日10〜20人が孤独死で亡くなっているらしいです。最近多い現場は都営住宅ですね。都営が全部空いちゃうんじゃないかってくらい、依頼は多いです。23区内で多いのは、練馬、板橋、北区、足立区、墨田区辺りかな。

——ところで郡山さんって、もともと戦場カメラマンなんですよね?

自分ではドキュメンタリー・フォトグラファーと言っています。報道写真家やフォト・ジャーナリストと名乗っていた時期もあったんですけど、今は紛争地っていうイメージではなくて。

——とは言え、あの「イラク人質事件」に巻き込まれた郡山総一郎さんですよね……?

あ、そうです。ネットでは知らない人が色々と書いてるんで、困ってるんですよね。


タイ南部ヤラー県バンナンサター郡にてタイ国軍のパトロールに同行中の郡山氏(2011年)

——紛争地を駆け巡って、イラクでは拉致され、それでも今なお活動を続けているってことですね。郡山さんがどんな人生を送ってきたのか、興味があります。長くなると思うんですけど、その写真人生を初めから聞かせてもらえますか?

(笑)じゃあ最初から話しましょう。まず僕、初めてカメラを握ったのが29歳なんですよ。それまでは大型運転手をやっていて。九州の宮崎県で、雪印の牛乳を運んでいた。そしたら2000年、雪印集団食中毒事件で大打撃を受けて。配達よりも返品の方が多くなった。30代目前だったこともあって、なにか別の面白いことをやろうと。ふとテレビを観ていたら、パレスチナのインティファーダ(民衆抵抗運動)が流れていたんで、そこ行こうって。

——えっ、そんな唐突に? もっとなにか理由は?

それが特になくて(笑)。ただ、小学生の頃に『アサヒグラフ』とかで石川文洋さんや沢田教一さんの写真を見ていた。なんでこの人たちはこんな想いをしてまで撮っているんだろう?という疑問はあったんです。こればっかりは行ってみないと分からないんだろうな、とも。それでたまたま目に入ったのがインティファーダの映像だった。


『イラク戦争開戦』(2003年、バクダッド)アメリカ軍の攻撃によって負傷した子どもたちがバクダッド市内の病院で治療を受けていた

——まずそこに行ってみたい、という欲望から始まったと。
そうです。行ってみたい、見てみたい。せっかく行くなら写真も撮ろうと思い、カメラを始めて。しかも海外なんて行ったことないし、パスポートもない。これが2000年。昔から〝思いついたらすぐ実行〟の人間なんで、その日の昼に会社まで行って「辞める」と伝えたんです。

——ワオッ、猪突猛進!

そしたら「ちょっと待ってくれ」と。返品対応もあるし、あと半年いて欲しいと。それで続けることにしたんですけど、半年後にはちゃんとパレスチナ行きましたよ。入国審査に3時間。英語も話せない。なにも出来ないのに、〝行きたい〟が先行しちゃった。


『イラク戦争開戦』(2003年、バクダッド)アメリカ軍の攻撃で亡くなった方の遺体を運ぶイラク人たち

——現地フィクサーもいない状態で、単独入国ですか。

はい、今考えると笑えますよ。結局40日くらいいたのかな。後半にも差しかがると、だいぶ慣れてきて。でもパレスチナ地区にだけは絶対に入れない。それでウダウダしていたら、たまたまエルサレムの旧市街で写真家のQ・サカマキさんに出会った。それでQさんに「これからチェックポイントに行くところなんだけど……行く?」と言われたから「行く行く!」って。

その30分後、Qさんが撃たれたんです。

——えー、なにその急展開!

跳弾が左手に当たって、骨にヒビが入った。翌日、Qさんから「車で一緒に連れていってあげるからアシスタントしてくれ」と言われて。レンズ交換とフィルム交換をやることになった。そのおかげでノウハウというか、取材の手順を学びました。

そのあと宮崎に戻って。出来上がった写真は散々だったけれど、とにかくあの緊張感が忘れられない。まだ20代、とにかく刺激がたまらなかった。銃声だ、催涙ガスだっていう。それでまた働いて、お金がたまったらまた行こうと心に決めました。


『パレスチナ』(2002年、ガザ地区)インティファーダ(民衆蜂起)でイスラエル軍に射殺された男性の葬儀

地元で配送業に邁進していると、今度は9.11が起きて。あの日、Qさんから電話が入ったんです。彼はニューヨークに住んでいるんですけど「テレビ観てる? NHKつけてみ?」と言われて。つけたら、ツインタワーに飛行機が突っ込む瞬間だった。それを見ても僕はピンと来なかったんだけど、Qさんが「次はアフガニスタンがやられる。俺はすぐパキスタンに行くけど、もし来るなら、どこどこのホテルにいるから。じゃ!」って切られて。エサ振られたよ!って(笑)。で、また会社を辞めましたよね。

——また辞めちゃった(笑)。それでそれで?

なんとか東京でビザを取り、パキスタンのペシャーワルまで飛びました。Qさんとも合流して写真を撮った。帰国後、写真を見てくれと色んな出版社にお願いし、唯一引っかかったのが『週刊朝日』。当時はまだポジだったんですけど、セレクトすらしていないポジを全て持っていって(笑)。恥ずかしー! 当時は写真の見せ方も知らなかったんです。


『パレスチナ』(2002年、ガザ地区)イスラエル軍による度重なる攻撃で破壊された難民キャンプ

じゃあ最初から見てみようとなって。これいいじゃん、これもいいねとやっているうち、「文章も書ける?」と。考えてもみなかったけれど、「書けます!」と即答。「じゃあ1200字ね、巻頭やりたいから」と言われ、ポジを持っていかれた。

——いきなり巻頭は快挙ですね! 文はどうしたんですか?

落ち着いてみると、作文もろくすっぽ書けないばかりか、パソコンすら使ったことがなかった。それで1200字書けと。焦って、すぐさま居候先の友達に「パソコンの使い方教えて」と訊いた。ワードの使い方だけ教えてもらい、1晩で1200字を書き上げました。その掲載誌がキヨスクに並んだのが、ちょうど僕の30歳の誕生日。

——おー、完璧なストーリー。

何度も何度も、自分のクレジットを読み返したのを覚えていますね。自分の目で見たものが紙になって、世に出せるという快感。それを知りました。さすがに文章は別人が書いたみたいに書き直されてましたけど。


『Bang bang Bankok』(2010年、バンコク)前日まではタイらしくのんびりとしていたデモ隊とタイ国軍がこの日初めて衝突した

そんな調子で、写真の面白さを知った。そのあとはテレビの組み立て工場で働いたりしながら、またお金を貯めて。溜まったら海外。それを繰り返していました。すると或る時、当時『週刊朝日』のデスクが電話をくれた。「写真続けるの?」って。「続けます。今も取材行こうと思って金貯めてます」と答えたら「お前、写真すごく下手だからさ。ちゃんと勉強した方がいい。仕事やるから東京に出てきなよ」と誘ってくれた。その1ヵ月後、ようやく上京を果たしたんです。


『Bang bang Bankok』(2010年、バンコク)衝突は夜になって激しさを増し、この日の衝突だけで日本人を含む20数人が亡くなった

——『週刊朝日』がくれた仕事というのは?

今もあるのかな? 「ドン小西のファッションチェック」をずっと担当していた。その合間合間、海外に取材へ行って。雑誌社だから、フィルムはいくらでも使わせてくれる。それは心配しなくても良くなって。そうして海外を回るようになっていって、2004年にとうとうイラク入りするんです。

——いよいよイラク入りすると……。読者の皆様、お待たせしました。ここからが本番です……。郡山さん、ということはイラク入りもそれまでの海外活動となんら変わらない目的や行動のためだったと。

そうです。付け加えると、前年にもイラクには入っていて。世話になったイラク人家族がいた。彼らが、引っ越したという連絡をくれていたんです。そろそろ行こうかなと思っていたし、劣化ウランなんかも見てみたかった。それで行くことにしたのが2004年。

——この件については色々あったと思うので、話せる範囲で構いません。「イラク人質事件」では郡山さんのほか、日本人2人が拉致されたと思います。彼らとは、どこで出会ったんですか?

現地に着いて、いつもの定宿に行ってみたんです。すると、例の2人がたまたまいて。当時のアンマン、バクダッドは物価がとても高かった。だから僕は移動の車を一緒にシェアしてくれる人を探していて。そしたら2人が「一緒に行く」と手を挙げた。もちろん初対面ですよ。あの当時、移動をシェアするやり方は全く珍しくなかった。


『Egyptian Revolution』(2011年、カイロ)昼間は汗ばむ陽気だが、朝夕はかなり冷え込む

夕方に宿を出て、朝方には国境を越えて。そしたら途中で、ふと車がガソリンスタンドに寄ったんです。「あれ、こんなところに寄るんだ?」と思った。運転手がスタンドで、ガソリンを入れ出した時、パッと横を見たら、マスクをしてRPGを持った連中が車で走ってきて。とっ捕まったんです。僕は他の2人とは別にされ、連れていかれた。独りになった状態で、30分くらい車で移動されて。

——えっ、怖い! 顔に袋とか被されて?

そうそう。左右をむっさいのに挟まれながら。

——連中はなんて言ってました?

それが全然分からないんです。彼らは英語が全く喋れない。とにかく(手招きしながら)来い来いと。で、連れて行かれた先には何十人かがいたんですけど、彼らがケンカしているんですね。コイツはなんなんだ?みたいな感じで。なかには止める人もいて。最終的には銃を突きつけられた。なに言ってるか分からないから、銃でどつかれる訳ですよ、胸を。

——えー、やだやだ! AK-47とかで?

そうそう、AK-47。でも、なぜか僕は開き直っちゃって。日本語で「撃てよコラ!」って叫んだら、向こうが黙っちゃって。それでまた車に乗せられ、2人のところに戻されたんです。あれ、なんだったのかなって。いまも思いますね。


『Egyptian Revolution』(2011年、カイロ)タハリール広場には衝突で破壊された車がそのまま放置されていた

——万が一の覚悟はしてました?

ああいうところを行く訳だから、そういうリスクは覚悟の上でした。それもあって、開き直っちゃったのかもしれないですけど。もともと気が短いんで、多人数でそういうことをするっていうのにイラッとしたんだと思います。

——それでそれで?

英語が話せる人のところに連れられ、メシをご馳走になり。で、ビデオを撮られる……

——それってもしかして犯行声明的な?

そうです。……順番が違うかな。どっちが先なんだ? メシの前にビデオ撮影をしたのか? いや、後だっけ……その辺の記憶がすごく曖昧で。というのも、色んな場所に移された。行く先々で相手が変わったんです。だから時間軸を正確に覚えられていなくて。これは3人で話しても話が合わない。3人が間違ってる可能性もある。

おそらくはこうです。まず普通の家に連れて行かれて。そこで話をし、誤解が解けたなと思ったんだけど、結局またどこかに連れていかれた。その翌日かな? コンクリート工場に連れていかれて。


『Egyptian Revolution』(2011年、カイロ)反ムバラク政権の集まるタハリール広場近くのゲストハウス

——おー、コンクリ工場はヤバイ!

そこでメシを食べたんです、みんなで。

——ああ、ゴハンね……良かった。

イラク人も一緒に。メシ食ったから大丈夫だなと思って。そしたら、ビデオ撮影が突然始まった。彼らとしては、怖がってもらわないと困るから。ワンアクション置いたんだと思うんです。後で謝ってましたよ。「怖かったでしょ、ゴメンね」って。

——ホント、そういう人たちで良かったですね。

あの頃はまだ色んな人たちが混在していて。僕たちを捕まえたのも、普通のイラク人たちだった。話を聞いたら、学校の先生だったり、建設会社で働いている人だったりで。要は家族が殺されていて、米軍は憎い。でもお前らに恨みはない。ちょうど日本が自衛隊を派遣する頃だったから、それは辞めて欲しいと。そういう意味で撮影したビデオだったらしくて。これは後で聞いた話ですけどね。解放される前日なんて、みんなで寝っ転がってジャッキー・チェンの映画を観てたんですから。


『Egyptian Revolution』(2011年、カイロ)朝方のタハリール広場

——マジッスか。それを写真で見たかった!

ハハハ! ジャッキー・チェンの映画、観てましたね。タイトルはなんだったっけ? とにかくその時は英語が話せる人たちだったから、意思の疎通もけっこうできた。ようやく安全なところまで来て、解放されました。

とにかく流れや目的はよく分からない。ただ、僕らを戦闘に巻き込まれないように、としてくれた感はすごくある。どんどん遠くにつれていかれたと思いますから。ジャッキーチェンの映画を観たところには2泊くらいしたんですけど、その前に3泊した場所なんて本当になにもないところだった。だからタイミングを見て僕たちを安全な方に、安全な方に動かしていたみたいです。

——一体どういう組織だったんですかね?

寄せ集めだったみたいですね。彼らが自分たちのことを言うとき、「レジスタンス」と呼んでいた。当時けっこういたんです。その他にもヨルダンとかから来ているような、米軍やっつけてやるぞ!っていうムジャヒディンたちも沢山いましたけど。たまたま僕らはレジスタンスに捕まった。それが良かった。


『Egyptian Revolution』(2011年、カイロ)ムバラク政権支持者による礼拝

——そういう恐ろしい体験を経て、人生観は変わりましたか?

命の危険を感じたことは、他でも何度もあって。パレスチナもけっこう通ってるので、怖い思いは何度もしました。その時ばかりは「なんでこんなところに来ちゃったんだろう?」と後悔はする。でも不思議なもので、また行きたくなるんですね。イラクは撮りたかったし、前の年に行っていて、いい印象があった。人もいいし、友達も出来ていたし。メールが一番のきっかけだったんですよ。「引っ越したから遊びにおいでよ」って。遠いぞと思いながらも行ったんですけど。

人生観か……ただ、写真を撮り続けるしかないな、とは思いました。要は帰国するとバッシングだらけ。僕の話なんて誰も聞いてくれなかった。テレビに出演すれば、生放送で騙される。打ち合わせと全く違うとか。結局、先入観で自分たちの筋道を作り上げているから、僕がなにか言ったところで変わらない。だったら行動で示そうと思って。ますます写真を撮ろうと思うようになった。


『戦争の後に来たもの』(2006年、カンボジア プノンペン)ゴミ捨て場で有機物を拾う人々

——そのあと動き出したのは?

4月に帰国して、次に出たのが6月かな? タイのHIV孤児施設を前に撮ってたんで、そこの子どもたちがテレビ観ながら泣いてたって、施設の人から聞いていた。だから顔を見せに行こうと思って。

その後、アフガニスタンに行った。イラクの時は正直、銃を向けられても怖いと思わなかった。だけど数ヵ月経って落ち着いてみると、色んな可能性があったなと考えちゃって。あのまま死んでいたかもと思うと、途端に怖くなった。

そんな気持ちのままじゃ、もう二度と紛争地には行けなくなる。じゃあひとつ、自分を試してみよう。アフガニスタンに行って写真が撮れなければ、写真を辞めようと思って。


『South』(2008年、タイ深南部ヤラー県)夕方、夕飯の買い出しに賑わう市場でムスリム男性が射殺された。報復を恐れるため、目撃者が名乗り出ることは少ない

——また極端な。

でもま、すんなり撮れたんですけどね(笑)。それで3週間くらい撮ってきて、また自信を取り戻して。銃を観ても、まだ写真が撮れると。あそこで無理してでもアフガニスタンに行かなければ、写真ももう続けられなかったのかもしれない。それと同時に、長く追いかけられるものを探していた。紛争地って、どうしてもスポットニュース的なもの。或る日思ったんです。僕らは自腹で行って、週刊誌で使われたら終わりでしょう? 流れていく消費的なものでしかない。もっと残るものを撮りたい。そう思うようになっていった。

……イラクのこととか、久しぶりに思い出しました。特に事件の9日間は曖昧で。昼も夜も分からない。時計もないから時間が分からない。


『South』(2008年、タイ深南部ヤラー県)タイ国軍によるテロ組織壊滅オペレーション。雨期特有の土砂降りで命令が聞こえにくく、怒鳴るように命令するコマンダー

覚えているのは、相手側のイラク人がいつも訊いてくるんですよ。なにが欲しい?って。僕はヘビースモーカーなので、「タバコ持ってきて!」と。すると各銘柄を計10箱くらい買ってきて。ごそっとね。それから、あの辺では鶏肉が高いのに、それをメシに出してくれたりとか。あとコーヒーがすごく飲みたくて。でも現地にはない。それも頼むと、頭を抱えながら「コーヒーハ…ナイ……」って(笑)。おじいちゃんだったんですけど、すごくいい人でしたね。

——結局、彼らの目的ってなんだったんでしょう?

僕が思うに、若いのが勝手に捕まえてしまったんですよ。それで、どう扱うかで困ってしまった。その流れのなかでビデオ撮影が始まり、そのあと彼らも反省して、という感じで。だから基本的に扱いはすごく良かったんです。


『South』(2013年、タイ深南部ヤラー県)朝、射殺された男性の遺体が病院に運ばれてきた。射殺などは早朝と夜に起こるケースが大半だ

——帰国後、日本の対応はどうでした?

すごかったですよ。そもそも一緒に拉致された他2人とは9日間も一緒にいる予定はなかった。ただ車をシェアするだけのつもりだったのに、ジャーナリストが素人と動くのはどうなのか?とかよく叩かれましたね。

現地には公安も来ていましたよ。解放されたその日から、公安が3人を尋問し始めた。僕は公安とかあんまり信用してないんで、適当に答えていた。でも全部決めてかかってきましたからね。こうだよね、こうだよねって。いや、そうじゃないよ、違うよ、なに言ってんだよって。そしたら30分程度で終わって。それに対して、ちゃんと対応していた他の2人は何時間も尋問されてましたね。

——帰国後しばらくはマークされたりとか?

された、された。公安手帳に僕の名前が載ってたらしいですからね。あと元自衛官だったから「反戦自衛官」と言われたりとか。


『South』(2013年、タイ深南部ヤラー県)深南部の主な地域、ヤラー、パタニー、ナラーティーワートを結ぶ道路には、警察による多くのチェックポイントがある

——郡山さん、自衛官だったんですか?

それも、元々なりたくてなった訳じゃなくて。お袋との約束で公務員になれと言われていて。その当時、僕になれる公務員が自衛官しかなかったというだけの話なんです。

——どれくらいの期間を?

陸上自衛隊に6年。元は競輪選手になりたくて。うちは片親なんですけど、高校を卒業した時にお願いをした。バイトはするから家に1年いさせて欲しい。それで競輪選手にトライして、ダメなら言うこと聞くからと。結局、選手にはなれなかったから自衛隊に入った。そこに思想があるかと言ったら、ありませんから。なのに、イラクの時にはすごく言われて。自衛隊だったから、そういうのを撮るんですかって。全く関係ないですよ。

話を戻すと、イラクに行く前はいくらでもバイトができた。でもあの1件で顔が割れちゃったから、バイトも出来なくなっちゃって。そうすると金がなくなりますよね。


『South』(2011年、タイ深南部ヤラー県)ムスリムが多い深南部では屠殺場も豚は仏教徒、牛はイスラム教徒で作業が分担されていた

——そりゃ大変だ。どう対処したんですか?

上野彦馬写真賞というコンペがあって。グランプリの賞金が100万円だった。2006年に応募したら、グランプリ獲っちゃった(笑)。その100万円で食い繋ぎましたね。そしたらフライデーから声がかかって、週刊誌の世界へ。その後は、殺人事件の送検から芸能人の張り込みまでやるようになって。お金は安定するようになった。

その合間は海外取材に出る。だから家にいないじゃないですか。或る時、妻に訊かれたんです。「写真と家庭、どっちが大切なの?」って。それに対し、期待されていた答えを答えてあげられなかった。その結果、今は独りで生きています。

——写真に全てを捧げた13年だったんですね。最後に「孤独死」についてもう少し。死臭って……どういうニオイなんですか?

よく訊かれるんですけど、表現するのは難しいです。誰かは「くさやに酢をかけたニオイ」と言ってましたね。僕が思うに「コーヒー豆を濃く煎ったニオイ」。若干、芳ばしい。それでも吐き気は催す臭さ。あと、お酒が好きな方の死臭は甘い。アルコールのニオイなんですよ。それは入った瞬間に分かります。で、キッチンを見るとだいたい酒瓶が並んでいる。


『Apartments in Tokyo』より

——死後どれくらい経っているか、なんとなく分かるもんなんでしょうか?

夏だと、ウジのサナギの数を数えれば大体予想はつきますね。あと体液の出方とか。

——ウジってどこから沸いてくるんでしょう?

あれね、どうも換気扇からみたいです。開いているじゃないですか。1匹でも入ってくれば、卵を植え付けて、それが羽化して増えて……という感じで食われていく。或る現場では、フローリングにウジがウニウニしていたから、どこから沸いてきたんだと思ったら、フローリングとカベの隙間にズラーッて。あと布団をめくるのは怖いですね。絶対にウジがいるよねと。ドキドキしながら、エイッ!とめくると、ビッチリいたりだとか。

——孤独死の写真シリーズ『Apartments in Tokyo』では、もちろん刺激の強い写真もありますけど、そうじゃない側面を捉えることを大事にされていると思います。人が突然、孤独に死ぬ—。これは圧倒的なインパクト。ニオイは凄そうだし、呪われそうだし、気持ちが悪い……。現場を知らなければ知らないほど、そういった先入観だけが一人歩きしがちです。だからこそ孤独死と向き合ってきた郡山さんに訊きたい。そこに、なにを見たんでしょうか?

ひとつ言えるのは「孤独死を取り巻く環境」ですね。孤独死とはいうけれど、見つからない理由は必ずある。実際、遺族が酷いケースは少なくなくて。社長曰く、見積もりの電話で「うちの誰々が死んじゃってさー」くらいのノリで話してくる人は少なからずいるみたいです。

遺族が僕たち清掃員に「孤独死したのは私のせいじゃない」と言ってくることもある。訊いてもいないのに、必死で言ってくる。延々とですよ。僕らが言われてもしょうがないじゃないですか。あれって多分、故人に対して言ってるんですよね。


『Apartments in Tokyo』より

或る現場では、玄関に男性が3人待ち構えていて。「清掃で来られたんですよね?」って訊いてきた。「そうです」と答えると「僕、(亡くなられた人の)友達なんです。遺品を頂きたいんで」って。亡くなられた方がフィギュアマニアだったみたいで。玄関先に体液が広がっている現場だったんですけど、それをモノともせず勢いよく入っていって。どこになにがあるかを知ってるんですね。だから迷わない。もう物色ですよ。友達という名の泥棒というか。

それから第1発見者はといったら、遺族や近所の人を思い浮かべがち。でも実は圧倒的に少なくて。じゃあ誰が見つけるかといったら、新聞配達や牛乳配達、それから大家さん。隣近所の人たちはなんとなく分かっても、自分が巻き込まれるのを恐れて名乗り出ないケースが多いみたいです。


『Apartments in Tokyo』より

孤独死を撮っていると、知り合いから縁起が悪いとか、気持ち悪いとか言われますけど、そういうものじゃないと思うんです。僕も今じゃ独りで暮らしているから、いつか孤独死する可能性はある。君もそうでしょって。

孤独死は、新たな死のカテゴリー。これから数も増えていくと思う。それよりも、なにが問題なのかと言ったら、腐るまで放置されて見つかることに問題がある。それってやっぱり、孤独死を取り巻く環境に行き着くってことなんじゃないかなって。僕はそう思うんです。

郡山総一郎は今年で撮影7年目を数えるタイ深南部のフォトストーリーによる個展を開催予定。浅草橋・Gallery Drainにて2014年6月28日から。

郡山総一郎 公式ウェブサイト
http://soichirokoriyama1.sites.livebooks.com

Gallery Drain
http://gallerydrain.com

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