「1-1. 写真家たち」カテゴリーアーカイブ

The Art of Taboo: 任航(レン・ハン)

Text by Tomo Kosuga
[初出掲載:VICE.com日本版 2013年9月]

話は唐突だが、たとえばキミが中国を旅するとしよう。そしてうっかりしたことに、手元のiPhoneに〝日々のエクササイズのための参考動画〟を仕込み忘れてしまう……。これは相当、深刻な事態だ。ましてやそれが1ヵ月以上の長旅なら、もう最低だ。
Copyright © Ren Hang
なんたって中国でポルノは、この世に存在しちゃいけないモノ。手に入れようと思ったら、それこそイバラの道が待っている。本屋やコンビニを漁ってみても、肌色を含んだ本なんてファッション雑誌が関の山だ。レンタルビデオ屋を探してみたところで、そもそもコピー文化がお盛んなこの国で〝映画を借りる〟なんて概念はまるで浸透していない。
最後の頼みの綱は、恐らくネットだろう。しかし中国のネット検閲は現実以上に厳しい。政府が設けた60以上の条例に従って24時間体制でフィルタリングされており、日本のサイトはおろか、海外の〝大人向け〟サイトなんてアクセスした瞬間にエラーメッセージが表示される始末。自慢の「〈Xvideos.com〉クラウドブックマーク」も、この時ばかりはタイタニック号よろしくネットの大海の奥底に眠ってしまって手が届かない。
要するに、中国でポルノはタブーだ。それはもう、国を挙げて取り締まっているレベル。もちろん本屋で成人雑誌は売っていないし、AVを販売・レンタルするような業者もいない。
ここまでの経緯をよーく理解してもらった上で、是非とも紹介したい中国の写真家がいる。任航(レン・ハン)と名乗る彼は、ヌードを題材にした写真作品を製作する27歳の北京人だ。

詩人としても活躍するレン・ハン。周りの友達やネットで集めた若い子たちをモデルにしたヌード写真を撮っている。その作風はというと、例えばトマトケチャップをかけた〝ソーセージ〟をパンに挟んだり、その〝ソーセージ〟にフォークを突き立てたりといった、まるでテリー・リチャードソンを彷彿させる過激な局部ネタもあれば、まるで白昼夢でも観ているかのような素晴らしいロケーションにあり得ないシチュエーションでハダカが立ち並んだ幻想的なモノもあったりと様々。

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〝レン・ハン イリュージョン〟とも呼べる無限のアイデアには誰もが驚嘆するものかと思いきや、中国内では過激な側面ばかりが人々の関心を集める様子で、中国当局から幾度も検閲を受けてきた。個展の大半は公開前に検閲に引っかかり、撮影現場では逮捕劇が繰り返され、彼のウェブサイトはたびたび強制閉鎖されてきたといったように。
ここで1つの疑問が生じる。確かに中国でポルノはタブーだ。しかしレン・ハンの写真は明らかにポルノじゃない。ではなぜ、彼のヌードはそこまで中国当局を刺激するのだろうか。
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「人体艺术」という言葉がある。日本語に訳すと「人体芸術」。いわゆる人の裸体を〝アーティスティック〟に写したヌード写真のことだ。本屋はもちろん、ネット検索においても「人体艺术」は中国で重要なキーワード。つまり鼻の下を伸ばした男たちが、さも高尚な眼差しで人体芸術(という名の裸体)を眺めては「素晴らしい芸術だ!」と興奮しながら写真集を買っていくワケ。
そういったタテマエがちゃんとあれば、或る程度は目をつむってもらえる。というのも、世界一の人口数を誇る中国であらゆる犯罪者を捕まえようとしたところでとうてい叶うハズがないからだ。他にも例えば、あたかも富裕層向けに作られているかのような男性ファッション誌が実はゲイをターゲットにしていたりも。
とにかくこの国ではタテマエが欠かせない。それなしで真っ向から立ち向かおうものなら、時に国家を敵に回すことだってある。

アイ・ウェイウェイ氏による写真作品「1匹のトラ、8つの乳房(One Tiger, Eight Breasts)」2010年

今から遡ること2年前。中国の現代アーティスト、アイ・ウェイウェイ氏がわいせつ罪の疑いで当局に取り調べを受けた。コトの発端は、アイ氏とそのファン女性4人が裸体で写り込んだ写真作品だ(上の写真を参照)。
仲睦まじく笑顔で写り込んだ彼らに性的関連性はまるで感じられず、まず思い浮かぶのは「解放」とか「平和」といったキーワードだが、当局はこれを「ポルノ」と指摘。これにはアート愛好家たちも黙っていられず、まもなくウェブサイト〈艾未粉果 Ai Wei Fans’ Nudity —— Listen, Chinese Government: Nudity is NOT Pornography〉(中国政府よ、聞いて欲しい。ヌードはポルノじゃない)という抗議活動まで発生。その扱いの如何について、海を越えて世界で多くの議論を呼んだ。
アイ・ウェイウェイ氏やレン・ハンによる写真作品と「人体艺术」を比較してみよう。果たしてどちらが異性を刺激する性的表現だろうか、どちらが真の意味で「芸術」だろうか。一個人の目線から見たらごくごく簡単なこの線引きが、どうやら国レベルでは真逆らしい。
あるいは当局にとって「卑猥」かどうかはさほど重要でなく、得体の知れないモノは「脅威」であり「挑発的」に見えるのだろうか。
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実際、レン・ハンの写真は狂おしいほどに独立的かつ独創的、フレッシュで輝かしい。日々の生活を堅苦しく縛り付ける社会のルールがどうでも良く感じられるほどに美しい。レン・ハンの指揮によって繰り広げられる筋肉の即興パフォーマンスは、時に個と個の境を曖昧にすらしてしまう。
その末恐ろしい想像力は「脅威」かもしれない、「挑発的」かもしれない。しかし、決して反社会的なモノではない。むしろ中国の人々、ひいては世界の人々に「生きる歓び」を与えるような、希望に溢れる「可能性の花」だろう。
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得てしてタブーに挑むモノは、自ずと問題提起を孕んでいるものだ。そして、非力なものだ。といいつつも、潰すのが簡単そうに見えて、一度生まれた波はそうたやすく止まってくれない。レン・ハンの場合、シンクロの波は無限の可能性を秘めた中国の若者たちへと着実に伝染している。それは、彼の下にモデル志望者からの連絡が途絶えないことからも把握できる。任航と書いて「舟任せ」といった名のレン・ハンだが、その舟はもしかすると中国の若者を乗せるほど巨大な〝箱舟〟なのかもしれない。
中国のタブーを追いかけて私が出会ったのは、解放とは程遠い国で毒々しいほどに真実を解き放とうとする美しい若者たちの健気で真っ直ぐな姿だった。

東北の森で野ジカを追い、その暗がりに太古日本のクオリアを見出す

Text by Tomo Kosuga
[初出掲載:VICE.com日本版 2013年7月]

田附 勝が放つ最新作は
〝暗がりの森に潜むシカたち〟

暗がりの森のなかに当てられた、一筋のライト。浮かび上がるのは、1匹の野ジカ。全身を照らされたそれはまるで驚くそぶりも見せず、光の差すほうに耳をピンと立てる。大きくつぶらな瞳は、しばしばライトの光によって怪しく閃光する—。
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処女作『DECOTORA』から一貫して東北、ひいては日本をフィルムに刻み続ける写真家、田附 勝。その最新作『KURAGARI』は森の暗がりに浮かび上がる野ジカの姿を映し出した写真集だ。2009年から2012年にかけ、岩手県釜石市唐丹町の夜の森を舞台に撮影された。

大橋 仁、人類の明るい繁栄のため全財産をはたいて酒池肉林を撮り収める。

Interview and text by Tomo Kosuga
5b0e0190a8ec6dc605e1decb459cf9a2『凄絶ナリ』——。アラーキーこと、荒木経惟にそう言わしめた写真がある。赤く染まった写真は、一見では繊細で落ち着き払った雰囲気だが、よく見るとそれがシーツに染み渡った鮮血だと分かる。しかも異常な量の、人間の、血。それは、大橋仁の義父による自殺の光景だった。
第1発見者となった大橋、このとき19歳。救急車を呼ぶと同時に「目のまえ」の光景にカメラを向けた。その後、幸運にも一命をとりとめた義父の「つづき」を、大橋は追い続ける。カメラひとつで。この生死のジェットコースターをまとめたのが、大橋の処女作『目のまえのつづき』(青幻舎 刊)だ。
〝生きること、死ぬこと〟をきれいごとで描くことなく、裸一貫、カメラひとつでぶつかった。ページをめくれば、様々な感情に揺れうごく魂の咆哮が聞こえてくる。
そして次作『いま』(青幻舎 刊)が刊行されたのは、処女作から6年後のこと。10人の妊婦からオギャーと赤ん坊が飛び出すまでの1年8ヵ月と、幼稚園児たちの姿を写すことで〝いのち〟をシンプルに描いた。
『いま』の表紙を飾った1枚の鮮やかなブルーが、処女作『目のまえのつづき』の燃えたぎるレッドと対称的であることが象徴するように、この2冊は表裏一体の関係にある。しかし、一般的に直視しがたい、なんともダイレクトというか、いわゆるナマナマしい着眼点は変わらない。とくに出産シーンなんて、血みどろの赤ん坊がニュルルルッ!と出てくるところを一切の迷いなく(のように見える)、赤の他人の大橋が写真行為目的で撮ってるんだから、もうなにがなんだかワケが分からない。
それからさらに7年が経ったいま、満を持して大橋が新作『そこにすわろうとおもう』を赤々舎から発表。上記2冊でも十分すぎるほどハードコアな人だと思っていたのに、ここにきてその限界値を自らブチ破るような、トンでもない3冊目を誕生させた。柔かなタイトルとは裏腹に〝ああ、ハードコアってこういう意味だったっけ〟と唸らされるような激写、激写、激写。実に400ページ。A3サイズ。23,000円。どれをとっても、センセーショナル。
その全貌は、ぜひ本を手にとって確認もらいたいが、しいて言うなら、ニッポンとポルノを掛け合わせてできたエロザムライの股に生えた男性器型のサムライソード300本に、同じく300匹ものニワトリが無理強いされながら、甲高い鳴き声で「オーウ、ニッポルノー!」って奇声を発してる感じ。三国志の董卓もビックリの〝肉肉肉〟林ぶりである。トンネルを抜けるとそこは女性器が……いや、むしろトンネルが女性器だったのかも……。とにかく、この酒池肉林騒ぎのために大橋がバラまいた札束はというと、実に「ポルシェ」数台分。え、マジで?! そんなバブリーな響き、久しく聞いていなかった。
年の瀬も迫った12月末の凍えるような週末、彼のスタジオを訪問。生きること、現代アートへの怒り、解剖学、ご先祖様との意外な繋がり、そして新作のことなどなど、盛りだくさんの話を時間の許す限り、語り合ってきた1万字越えのロングインタビューをココに公開しよう……。

大橋 仁、人類の明るい繁栄のため全財産をはたいて酒池肉林を撮り収める。

Interview and text by Tomo Kosuga
初出掲載:VICE.com日本版 2013年

1万字越えのロングインタビュー、後編。前編を未読の人はコチラから

5b0e0190a8ec6dc605e1decb459cf9a2写真家・大橋 仁が、3rd写真集『そこにすわろうとおもう』を刊行した。A3サイズ、400ページ、23,000円。これだけのブッ飛び設定にもかかわらず、なんでも書店には並ばないらしい。

彼と話してみて感じたのは、大橋 仁が写真で追い求めるモノっていうのが、よく子どもがオトナにしてくるような〝困った質問〟に近いってこと。1作目が「死ぬってなに?」という問いかけだとすれば、続く2作目は「僕ってどうやって産まれてきたの?」。そして今回が「人はどうやって作られるの?」って感じ。

それぞれに対して答えるなら、「無になる」、「お母さんのおなかから」、「お父さんがお母さんのなかに入る」とでも答えればいいのかも。だけど、子どもってのはそんなんじゃ納得してくれないだろう。次第に、答えた側としても、ホントにそれで正しいのか分からなくなる。そもそもコトバで表現できるものなのか?と。いかなるときも万能だと思えた〝コトバ〟に、オレたちが裏切られる瞬間。

大橋の写真は、それくらいピュアな疑問を出発点にしている。だからかな、ものすごく刺激的なんだけど、たまに見たくもないものを見せられる場面があって、ドキッとさせられることも。つまりハッと驚かされると同時に、生理的な嫌悪感も感じるってこと(そしてそれは上で挙げたような質問をしてくるガキどもに対して抱く感情に近い)。

前置きはこのくらいに。とにかく彼から聞いた話をここに公開する。最新作のことはもちろん、写真を数で表現すること、恐ろしくホラーなご先祖様との意外な関係、果てには人類がいかに愚かでクズで無能かまで、彼の脳内で渦巻くモノを可能な限り、引っ張り出してきたぜ!

森村泰昌はホンモノを観ないことで培える感受性を芸術に〝ヘンタイ〟する

Interview and text by Tomo Kosuga
yasumasa-morimura芸術家、森村泰昌は〝空想が好き/芸術は食べられる〟という思想のもと、ゴッホの自画像や名作『モナ・リザ』、フリーダ・カーロの自画像、挙げ句の果てにはピカソの絵といった絵画のモチーフに〝変態〟する(つまりゴッホやモナリザに扮装するってことだ)。
しまいには二次元の世界に飽き足らず、マリリン・モンローやブリジット・バルドー、マレーネ・ディートリッヒといった三次元で活躍した女優に扮するシリーズまで展開。最近ではチェ・ゲバラやヒットラー、毛沢東といった歴史上の男たちにまで手を伸ばしている。この24年間をひたすら扮装し続け、もちろん今後もそうしていくのであろう様子を眺めていると、森村泰昌という存在そのものが曖昧になっていく。果たして森村泰昌が目指す先にあるオリジナリティとは?
今回、森村泰昌が抱く女装や、同じくマリリンやその他有名人に扮装するKeiichiの作品『100K』を見てもらうなかで、その曖昧な人物像をなんとかフルーチェ程度まで輪郭づけようと努力した。
——個人的に森村さんの作品を初めて観たのは1998年の個展『空想美術館』でした。そこでゴッホの『ひまわり』のことも知って。つまり、オリジナルよりも森村ver.と先に出会っている。ここで面白いのは、自分の中では森村ver.の方がオリジナルよりもホンモノらしく感じるということです。
森村泰昌: なるほど。作品作りを始めた当初こそ意識していなかったものの、結果的に自分の作品は観客をナビゲートするスタイルになっていたんでしょうね。それは観客の皆さんから教えられたことでした。私の写真はよく《モノマネ》という言われ方をされます。しかし観客の反応を知るようになってからは、単純に似てるだけで面白いというわけでもないのかなと、そう思うようになりましたね。
——既存の美術をモチーフにするというスタイルが生まれたきっかけは?
若い頃は抽象絵画を描いていましたが、どうも作品から逃げている部分があると思っていたんです。そこで思い切って絵画から写真に切り替え、自分自身をテーマにしてみようと。
しかし、今でこそセルフポートレート形式の作品も色々ありますが、20数年前だとさほどなかった。そんな時代に、自分の顔を合成した作品を闇雲に制作したところで〝東洋の得体も知れない男の顔が合成されたヘンテコな作品〟に過ぎない。それでは表現として成り立たないと思った僕は、美術作品というイメージのうえで表現する必要があると結論づいた。その結果、美術史というテーマに行き着いたんです。
そうして1985年に『肖像・ゴッホ』という作品で初めて、美術絵画に自分の顔を合成するという手法を試みました。誰もが知っている美術のひとつであるゴッホの作品に自分の顔が付け加えられることによって、当時無名だった大阪人の顔がムリヤリ芸術化される。そこに面白さを見出せて、ようやく手応えを感じたようです。
 左から順に:『はじまりとしてのモナ・リザ』(1998年)、『身ごもるモナ・リザ』(1998年)、『第三のモナ・リザ』(1998年)

左から順に:『はじまりとしてのモナ・リザ』(1998年)、『身ごもるモナ・リザ』(1998年)、『第三のモナ・リザ』(1998年)

——美術作品に森村さんの顔を当て込んだだけなのに、親しみの度合いはまるで変わってきますね。アート本来の高い敷居が一気に低くなるというか。
たとえば、鎖国時代から一気にグローバル化を迎えた明治時代の話をします。その当時の芸術家にはパリなどへ留学する人が少なくなった。彼らが海外で芸術を学び、そして帰国してから描いた絵というのは、表向きこそ印象派風である一方で、人物や風景は日本人の感性や日本の土壌から成り立っているんです。これは僕がやっていることと近くて。つまり〝登場人物は東洋人、だけどテーマは西洋〟という奇妙な組み合わせ。
こうした西洋・東洋間における葛藤こそ、日本ならではの立派な文化だと思うんです。それを受け継いでいきたいと思うし、少なからず自分は作品を通してそれを果たせていると思っています。
西洋の絵画だからといって外国人モデルを使うのではなく、あくまでも東洋人としての自分自身を使う。そうすることで、現代における日本人の葛藤が見えてくる。その葛藤を日本国内だけでなく、世界の人たちに観てもらえるような表現へと昇華することが大事だと考えています。
——その一方で、森村さんの作風にはあらゆる芸術作品を片っ端から模倣できる強みがあります。
普通、時間というのは〝過去から現在、現在から未来〟という風に規則正しく流れていると考えられてます。そして、古いモノが常にオリジナルであると。だけど本当にそうなのかと僕は思うんです。少なくとも、僕たちの時間感覚はそうじゃない。例えば若い子が音楽を聴く順というのはたいてい、自分たちの時代のポップスから始まって、だんだんと昔の音楽へと遡っていくでしょう? 僕自身、作品でテーマにするオリジナルの作品というのは後々になって見ることが多くて。
ゴッホやマネの作品を初めてオルセー美術館で観たのも、自分の作品を作ってだいぶ経ってからなんです。僕が参照にしていたのは図録だけで。或る人はその手法を「原作を誤解する恐れがある」と言うかもしれないけれど、見ることで形作られる感受性もあれば、その逆も然りで。
パリに住んでいる人たちは、オルセー美術館でホンモノを観ることで培える感受性を大事にすればいいし、それがなかなか出来ない日本人は〝観ないで培える感受性〟を大事にすればいい。色んなケースがあって良くて、そのどれが正しいというわけでもないと思いますね。つまり、自分が置かれている環境を大事にしたいんです。そうして生まれてくるモノこそユニークさだと思います。
——芸術に時間軸は関係ないと。その原理だと、被写体が森村さんじゃなくても成立しそうですね。
僕にとって、作品は〝ステージ〟なんです。そこに森村という登場人物がいて、さらに別の登場人物としてゴッホやマリリン・モンローが1人ずつ登場してくる。彼らと僕が出会うところから物語は始まるんです。その物語が舞台を構成し、いわばその舞台そのものが作品として成り立つ。
ともすれば森村という存在は当然そこに不可欠ですし、逆にもし僕ではない異なる俳優が出るとなると、その舞台は全く異なるものになってしまう。だから森村劇場とアナタの劇場は全く別物なんです。観る人に森村劇場を押しつけるつもりは毛頭なくて、あくまでも、森村が登場した場合はこうなりますよ、もしあなたが登場したらどうなるんでしょうね、という問いかけに過ぎない。
——その舞台で繰り広げられる物語にはあらかじめ筋書きがあるんですか?
舞台の上で僕とモチーフとが出会う時、そこにシナリオはありません。あくまでも偶然の産物。出会ってみないと分からない。そういう意味で、僕の作品は極めてナマモノなんです。逆に計画し尽くされていては、加工食品みたいで面白くない。故にパフォーマンス的要素はあると思います。
——『モナ・リザ』シリーズのように、森村さんの作品にはモチーフにおける置き換えが多重に生じたがためにオリジナルの原型を留めていないものも見受けられます。それは森村劇場が〝原作ありきのステージ〟から〝森村独自のステージ〟へと進化していった、そう捉えることができそうです。
置き換えるという行為は、誰もが自然とアタマの中で繰り広げているプロセスだと思うんです。つまり、無から有は生まれない。だけど既存のなにかを何度も何度も置換していくうち、別のなにかへと変化していくことがある。ゼロからいきなりそこには辿りつけない。そう考えると、オリジナルの作品が見えなくなっていくのもアリだなと思いますね。
 『セルフポートレイト(女優)/黒いマリリン』(1996年)

『セルフポートレイト(女優)/黒いマリリン』(1996年)

——ここ最近の作品『なにものかへのレクイエム』は今までの『女優シリーズ』から打って変わって、歴史上の男性像に扮装した内容ですね。
今回の『なにものかへのレクイエム』は、現実世界、つまり政治や戦争のなかで輝く男性像を追っています。その一方で、過去にやった『女優シリーズ』は、映画という虚像の世界でこそ女性は最も輝いて見える、という考えをもとにやっていたものです。
——今まで『女優シリーズ』ばかり観てきたせいか、てっきり森村さんは女装に快感を見い出しているのかと思っていました。
よく訊かれるのが、「マリリン・モンローになった時はマリリンの気持ちになるんでしょうか?」という質問。でも、そんな単純なものでもないんです。
例えば過去に、森村版ブリジット・バルドーがハーレーに乗っている、というシチュエーションで撮影したことがありました。これは屋外撮影だったので、たくさんの人が見ている中での撮影。その真ん中に立ってその世界を傍観できるのは、ブリジット・バルドーになった自分しかいないんですね。その瞬間、これが女優というモノなのか、と悟りました。
例えば王様や映画監督といった人々はそうしたポジションを権力で保つけれど、女優はただそこに居るだけで成り立ってしまう。そしてそれは〝王女〟でも〝マリリン〟でも〝女性〟でもなく、あくまで〝女優〟という概念なんです。だから僕は、女優を演じるうえで固有の人物に成り切るのではなく、あくまでも〝女優〟というポジションに立つことを意識しました。
そういう意味では、男性を演じるのも女性を演じるのも、或る意味では大差なくて。衣装やメイクといった表面的な特徴はそれぞれ性を表しているかもしれませんが、その一方で〝なにかに立ち向かう意識〟が必ず含まれている。
例えば女優たちが非常に柔らかな女性の衣装を身にまとっていたとしても、考え様によっては人々を魅了する戦の武装と捉えることもできる。そういう意味では、非常に男性的で。逆に政治家や革命家にしても、衣装になんらかの魅せる要素が含まれていれば、女性的な要素を孕んでいると考えられます。そうした錯綜もまた、僕のテーマのひとつなんです。
——先ほど「芸術に時間軸は関係ない」という話が出ました最近、Keiichi Nittaというフォトグラファーがマリリン・モンローなどに扮装した作品を手がけています。森村マリリンを知らない人がKeiichiマリリンを見た場合、可能性としてさらなる倒錯を生み出す可能性もあると思います。こうした現象をどう受け止めますか?
そういう経験は今までもたくさんありました。シンディー・シャーマンも、僕と同時期に同じようなことをやっていましたしね。最近ではインドネシア人のアーティストが僕の『モナ・リザ』シリーズの、おなかに子供を宿した作品をベースに絵を描いたらしいです。
もしかしたらこうした現象はそれほど珍しくないのかもしれません。旧約聖書に出てくる場面なども、多くの著名な作家が描いていますよね。マリア様だけでも、どれだけの数が描かれてきたことか。
同様にマリリン・モンローも、現代という時代の重要人物の1人なんですよ。ウォーホルだって、彼なりの手法でマリリンをテーマに作品を作っている。そういう意味では、マリリンやマイケル、あるいはチャップリンなどといった人々が題材としてアーティストに扱われるのはそう珍しくはないということで。
人は彼らのような、時代のアイコンになにかを感じるのでしょう。現代ではアニメにそれを見いだす人も出てくるかもしれません。そういった意味ではこうした現象が起きても不思議ではないと思いますね。

サイケデリックなドラッグ仙人のワナ

Interview and text by Tomo Kosuga
[初出掲載:Viceland.com日本版 2009年3月]

14-399x382ローの写真は不思議だ。人や動物、風景、建物といったスナップ写真がゴチャ混ぜにミックスされているんだけれど、そのどれもが断片的で説明しがたい。とにかく抽象的なスナップの集まりなのに、それでもなんらかのストーリーを物語ろうとしてくるんだ。
「それ矛盾してるだろ」って? そう、彼の作品は矛盾している。だけどなぜか成立もしている。水と油が溶け合うような、ありえない現象だ。 実は中国の奥地、雲をも突き抜けた山のてっぺんに暮らす666歳のコーンヘッド仙人か誰かが手がけた魔法なんじゃないかとも思いたくなる。
そんなローが表参道・ラットホールギャラリーで個展『グッドナイト・フラワーズ』を開いた。常人離れしたこの魔法使いを前にして、作品に隠されたトリックを単刀直入に訊いてみたところ、やっぱりタネも仕掛けもしっかりあるようだ。

写真家 田附 勝、デコトラの煌びやかなネオンに男たちの飽くなき夢と意地を見る。

Interview and text by Tomo Kosuga
[初出掲載:VICE MAGAZINE 国際版 FASHION ISSUE 2008]

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目がチカチカするネオンを随所に散りばめ、浜崎あゆみやイエス・キリスト、はたまた幻獣などがカラフルに描かれた長距離トラック「デコトラ」—。
ブームのきっかけは、70年代に公開された映画『トラック野郎』だ。菅原文太扮する星桃次郎が一番星号というデコトラを縦横無尽に操り、大暴れした。映画の国民的ヒットはスクリーンに留まることなく、デコトラのプラモデルが小学生たちに流行ったりと、社会現象にまで発展。しかしそれから30余年が経ったいま、街で見かける機会もほぼないに等しいほど、デコトラの存在感は薄れてしまった。

写真界の異端児が見つめるその先。

Interview and Portraits by Tomo Kosuga
[初出掲載:VICE MAGAZINE Volume5 Number2 2008]

セックス、ドラッグ、ロックンロール……。3ワードで表わされる、男の美学。でもここ日本ではなかなかどうしてタブーの領域らしく、オモテ向きは誰もが「セックス? ドラッグ?? ぜんぜん興味ないです」って顔してる。ここはひとつ、男の美学を地でいく男にその生き様を学ぼう!と、オレたちVICE JAPANははるばるニューヨークから、かのテリー・リチャードソン大先生を召喚した。
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せっかく来てもらうからには、なにかやらないと、な。そこでテリーとその父、ボブの親子展を日本で開くことにした。テリーはあのジャッカスたちとのおふざけ写真をラフォーレ・ミュージアムでブチかまし、今は亡き父ボブは黄金期のファッション写真を展開。ちなみにボブの展示はこれが最初で最後、とテリーが決めていた。
そんな貴重な展示のキュレーションを任されたオレは、なんとか必死こいて2つとも無事に完成させたんだが、そのあとに待ち構えていたテリーとのインタビューはもう死ぬほど緊張してしまった。なぜならテリーはオレにとって、三度のメシより愛して止まないほど尊敬する男だったからだ……。