「1-1. 写真家たち」カテゴリーアーカイブ

秋田の限界集落に赴き、「朽ちていく写真たち」を見てきた。

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■秋田の限界集落で開かれる、謎のアートイベント
「ハイ、着きましたよ!」——。早朝から電車、バス、飛行機、バス、バスといくつもの移動手段を駆使した挙げ句、いよいよ睡魔に襲われ始めたころ、ようやく目当ての村に着いた。
ここは上小阿仁村。秋田県のほぼ中央に位置する、山あいの村である。地元の縄文遺跡などから、古くは3500年前から人が居住し続けた地であることが判明している。そして徳川時代、藩の方針として「秋田杉」を育て始めたことから、その産地としても今なお有名だ。
ここを舞台に毎年開催されているアートイベント「KAMIKOANI PROJECT AKITA」をこの目で確かめたく、はるばるやってきたというわけ。いわゆる極度な高齢化が進む「限界集落」を舞台にしたアートイベントである。なんだかその意気込みもおもしろい。
なかでも、写真家・田附勝さんの展示『みえないところに私をしまう』を観たくてやってきた。展示としては珍しく、2013年から丸2年も展示され続けているんだけれど、今年でそれも終わりと聞いて。
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僕はこの展示のことを2013年に、当時勤めていたVICEで記事にまとめている
が、恥ずかしいことに、展示を観に来てはいなかった。当時、田附さんの話を電話ごしで聞くだけでもイマジネーションがぼこぼこと湧いてくるような、なにかヒントをくれる魅力に満ちあふれていることは確かだと思ったし、なによりも田附さんの写真はいつも、写真以外の大切なことを教えてくるから、きっとこの展示でもなにか気づきがあるんじゃないかって思った。
今回は、ようやく訪れられたこの展示について説明していこうと思うんだけれど、写真の中身、つまり田附さんがなにを描こうとしたのかについては、先述の記事を読んでもらえばいいと思うので、今回はどちらかというと、本展を実際にこの目で見て感じられたことを中心に書いていく。
その前に、このイベントの舞台となった上小阿仁村について、まずは知ってもらいたいことがいくつかある。それらを順に説明していこう。
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■わずか15人ばかりが暮らす八木沢集落

明治22年、市町村制施行により、現地に点在する9つもの村が統合したものを「上小阿仁村」と呼ぶことになった。このことからも分かるように、いわゆる「1ヵ所にまとまった家々の集合体」というよりは、「森のなかにポツポツと点在する集落」をまとめて上小阿仁村という。

実際、村の92.7%が山林原野なのだから、どちらかというと自然の存在感のほうが強いエリアだ。


まるでガガが履きそうなブーツのような形状をした上小阿仁村
 
2013年の秋田県総人口は105万人。対して65歳以上人口が33万人。これを高齢化率で表わすと31.6%。これは全国1位の割合となり、2040年には43.8%に達するとも予測される。つまり秋田県はぶっちぎりで全国1位の高齢化県なのである(内閣府発表「高齢化の状況」より抜粋)。
そのなかにあって、集落の現状は実に険しいものだ。「限界集落」という代名詞も持つ八木沢集落にいたっては、「人口:15 人 世帯数:8 世帯」っていう始末(2015年3月1日現在)。
えっ、15人ってなに!? ありえないっしょ! これが、初めて聞いたときの、僕の率直な感想。八木沢集落は、秋田県で最も人口が少なく、最も高齢化や過疎化、空洞化が進んでいるとも言われる。
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誰がどう見ても、村の終焉はそう遠くない。
それでも「地域おこし協力隊員」という名目で、都会出身の若者を受け入れて住まわせたり、今回のようなイベントを実現させるなことで、村おこしまでいかなくとも、そこに在る歴史や文化を次なる世代に継承したい。そうした思いは、今年のテーマ「ただ、ここに、在り続けたい。」からも伝わってくる。
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今年のイベントポスターを飾ったのは、上小阿仁村地域活性化応援隊の水原聡一郎さん

■田附さんは集落と向き合い、なにを写そうとしたのか
さあ、ここからが本題だ。田附さんは当初、このプロジェクトに参加するうえで、ひとつの決意をしている。

「もちろん村おこしの意味も含まれるんだけど、八木沢集落は今や限界集落。もう20人弱のお年寄りしか住んでないし、若い人が戻ってきて定住しない限り、村として変われる部分はそれほどない。だから俺は、この村が幸であれ不幸であれ、この現状をそのまま見せたいと思った」

田附勝インタビュー記事より

電話ごしにこの話を聞いたとき、僕は「いやあ、かっけえこと言うなあ!」と関心していたが、実際に現地を訪れてみると、そのことは身に浸みて分かったような気がした。
というのも、村人に話しかけて、訊いてみたんだ、このプロジェクトのことを。田附さんの展示のことを。そしたら、なんというか……なにも返ってこなかった。かえって困らせてしまうほど、まるで無関心という印象だった。
実際、そうなんだろう。まだ村が持続可能、あるいは発展可能なほどの規模なら、とも思う。しかし現実は15人なのだ。いまさら、なにが変わるというのだ。この集落はたしかに、消えかかっていた。そう考えると、田附さんの言葉の節々が重く感じられた。
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これが展示会場。トタンでできた小屋。
元々は耕具などをしまう物置だったらしい。上小阿仁村ではまだトタン作りの家々が風景として残っていて、カラフルな街並みがよく目に入ってくる。
展示タイトルは『みえないところに私をしまう』。なにやら意味深な響きだけれど、これについては前のインタビューで田附さんが答えてくれている。

「写真を撮らせてくれた人たちにはポラをあげたんだけど、おばあちゃんの1人が箱を持ってきてさ。なにが入ってるのかと思ったら、出てきたのは写真アルバム。そうやって写真を大事に保管していた。それを見て、普段は日の目を見ない人生が〝しまわれてる〟んだなって。それで俺も今回、自分が八木沢を訪れて見たこと感じたことを〝しまおう〟と思ってさ。それでこういうタイトルなワケ」

田附勝インタビュー記事より

 

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「小屋には入らないで下さい」って書いてあるのに筆者は入ってしまった。ゴメンナサイ

じつに素敵なストーリーだし、実際、小屋のなかを外から眺めるだけでも、なにやら見ちゃいけないものがなかに潜んでいるような気にも。いつも東京じゃ、腐るほど写真に囲まれているくせして、なぜかこの小屋では、写真が特異なものに見えてきて。

なにかこの村に起きている、何気ない「いま」が刻まれているというか。この「ざわざわ」した感覚に向き合ったのが、ほかでもない田附さんだったんだろう。だから僕も、自分が感じたことを素直に受け止めることにした。

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小屋に入ってすぐ目に入る巨大な老人の顔写真

■いよいよ、小屋の中に入ってみる。
中に入ってみる。強烈に出迎えてくれたのは、老人の顔アップ。強烈なインパクトだ。
おもしろいなと思ったのは、この老人の顔写真が2年もの経年劣化によって、シワだらけになっていたこと。おじいさんの皺と相まってというか、写真のほうがおじいさんに歩み寄ろうとしているようにも見えて、なんだか「ああ、写真も生きてるんだ」と思った。
そう、この展示において写真たちは、呼吸をし、生きているんだよね。もしかすると、額にしまわれ、丁重にあつかわれることのほうがむしろ、写真を殺してるんじゃないかって、そう思えてしまうほどに。
そのほかにも、壁近くの写真は雨や雪、湿気などによって消えかかっていた。このことも、田附さんは2年前に予測していた。

「誰かが見張ってるワケじゃないし、小屋も隙間だらけ。雨が降れば中の写真も濡れちゃうと思うんだよ。でも、もしかしたらこの場合はそれでいいんじゃないか?と思ったんだ。村も人も、トタンも写真も、みな朽ちていくものなんだってさ。それも含めて写真っていうかさ。そういう展示になればいいのかなって、今回は思ったんだよね」

田附勝インタビュー記事より

 

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朽ち果てた写真たちも、見方を変えれば、それが生きていたことを証明するかのよう

朽ちていく写真。そんなの、考えたこともなかった。
いま、写真はかつてないほど、丁寧に扱われるようになった。ある写真には札束が飛び舞う。たかが、紙なのに。大事なのは、そこに映り込んだものであって、その紙が大切なわけではないのに。価値を認められた写真は額に収められ、いつまでも永遠に死んだ時を、果てることなく継続させる。
でもこの写真家は、紙切れに「朽ちてもいいんだよ」と声をかけ、写真は朽ちることを許されたことから、朽ちかけるまでの時を生きることができた。僕たちはさんざん、写真から「時」は抜け落ちるものだと信じ込んでいたのに。
もしかするとこの集落は、いつの日にか消え去るのかもしれない。 でもそれを「死」と捉えるのでなく、「朽ちる」と捉えるとどうだろう。木は虫や動物によって朽ち、倒れたのちに菌類によって分解され、土となる。そこから新たな生命が誕生する。偉大な自然が教えてくれることは、終焉が白黒ハッキリしたものでないことと同時に、その先に新たなものが待ち構えるということ。
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■写真のなかに「しまう」ということ
最初に、村人は無関心だったと書いたけれど、それが如実に感じられたのは、田附さんの写真で村人たちを撮ったものからだった。なにか突き放したような、冷たく、部外者を見るような目つき。頭に黄色いタオルを巻いた男性からはいくぶんの気持ちが感じられるけれど。
これは勝手な想像だけれど、もしかすると田附さんはこの村に歓迎されていなかったのかもしれない。たった1週間っていう、とても短かな時間のなかで完成させてくれ、っていう依頼でもあったのだから、いつもなら一プロジェクトに最低でも1年はかける田附さんのことだから、なおのこと。あるいは「静かにさせてほしい」という気持ちがにじみ出ているのかもしれない。なにせこの村は、もう先が見えているのだから。それは先述した村人の反応からも見てとれることだ。
それでも集落と向き合ったとき、見えてきたものを素直に吐き出したのが、『みえないところに私をしまう』だったのかもしれない。田附さんはこのときの撮影のことはあまり多くを語らなかった。それはきっと、田附さん自身も現地で「私をしまう」ことで、この作品を完結させたからだろう。
田附さん曰く、本展は今年で最後となり、以降は公開する予定はないとのこと。その言葉の意味が、現地を訪れてみて、少し分かったような気がする。
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■村おこしとしてのアートイベントの課題
このイベントに訪れる人々は、地元・秋田県からが大半だった。
あるおばさんに話しかけられたが、このイベントも今年で最後と聞いてやってきたという。秋田市から無料の送迎バスを運転してくれたスタッフさん曰く、今後はイベント名を変え、また違うカタチでの継続を考えているとのこと。村人たちの会話は方言がひどく、もはや異国語のようだった。
そのほか、村に点在する作品も回遊しながら鑑賞したが、村を部外者の目線から見て感じられることや、非現実的な彫刻が目立ち、なぜこの舞台でその作品を見せる必要があるのか?という疑問に答えるような作品はあまり見当たらない。イベントそのものも、どこに向かえば良いのか、まだ方向性が定まっていないようにも見受けられた。
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八木沢集落に点在する〝アート〟作品。う〜〜ん……

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う〜〜〜〜〜ん…………

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やりたいことはなんとなく伝わる

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これに至っては、完成していると言えるのだろうか………分からない

アートで観光客を、という話も近頃よく聞く。秋田県のように高齢化が顕著な場所においてはなおのこと。
アートの力で明るく楽しく、素晴らしい未来をえがくような道すじにしたい。そんな気持ちも分からなくもない。でも、現実を描かざるをえない写真という表現において、田附さんがこの集落で見つめようとしたこともまた伝えていくべき現実であり、見つめなければならない事実だ。
もうじきこのイベントも終わりを迎える。ぜひ行ってみて、とまでお勧めすることはさすがに憚られるから、せめて少しでも現地の空気が感じられるよう、現地レポートというカタチでここに残し、この辺りで筆を置くことにしよう。
協賛、10-3
他にこんな記事もどうぞ
デコトラの田附勝、東北の限界集落に自らを「しまう」
www.tomokosuga.com/articles/masaru-tatsuki-mienai/
一万年の時を超えて | 田附勝「魚人」レビュー
http://imaonline.jp/pickup/review/20150204/
東北の森で野ジカを追い、その暗がりに太古日本のクオリアを見出す
http://www.tomokosuga.com/articles/masaru-tatsuki-kuragari/
田附勝、デコトラの煌びやかなネオンに男たちの飽くなき夢と意地を見る。
http://www.tomokosuga.com/articles/tatsuki-decotora/

白雪の青年が試みる、血と大地との言葉なき対話。

まるで白雪をかぶったかのように白く染まった、無垢の表紙。ひとたび開けばページの余白すらほっこりとして愛らしい。控えめだが、ずしりと響く装丁は積雪のよう。写真集『吹雪の日/凪の海』は1984年生まれの若き写真家、山下隆博さんが綴る、と或る2人の芸術家の目を通して見た、故郷・北海道とそこに暮らす家族たち、そして原発にまつわる作品だ。山下さんの言葉にヒントを得ながら、写真家が故郷から導かんとする物語を紐解いてみよう。
高校卒業までの18年間を北海道後志地方の岩内町で過ごした山下さん。「右を見れば羊蹄山をはじめとした山々が連なり、左を見れば日本海が広がっている。そんな風光明媚な場所」を故郷に持った。そして「私が生まれた1984年に隣の泊村では原子力発電施設の着工が始まった」という。これは現在において北海道唯一の原発である。
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高校を卒業と同時に上京、写真専門学校に入学。そこで出会った報道写真家、樋口健二が山下さんに大きな影響を与えた。「(樋口さんの)授業の中でしばしば出てくる原発労働者を取材していた時の彼の語る体験談は、どこか劇的過ぎて私の中に入ってこなかった」山下さんだが、「原発に対する彼の断固とした態度は私の中にとてつもない違和感として残ったのだろう。その数年後から私は社会的な視点をもって故郷の撮影を始めた」と冷静に振り返る。
ここで本作のテーマについて考えてみよう。山下さんの話から浮かび上がる物語のテーマは「原発問題」だ。それは山下さんが「二人の目を通して私は故郷を見ている。それは原発問題を考える時に重要な事なのではないかと考えている」と最後を締め括っていることからも汲み取れる。しかし実際に写真が語りかけてくることは、もうすこし複雑のようだ。
全体を通して印象的で記憶に残るのは「人々」であり「暮らしの断片」である。そこからさらに視点を引いた写真もあるが、まだ人々の生活圏内であり、人工物が混じる。この段階でようやく本書における原発の存在に気づく。「泊発電所」(とまりはつでんしょ)を、定点観測によって異なる時間に同じ構図と位置をとらえた4枚だ(そのうちの1枚が上で一番最初に紹介した風景写真である)。しかし一目でそれだと分かるような撮り方ではなく、よく目をこらして小さく見受けられる程度。さらに引いた写真になると、もはや誰もいない、白い雪に染まった海や山だ。
つまり山下さんが本作を通じて伝えたいことは、たやすく言えば「原発問題」だが、その眼差しはあくまで「原発の周囲」に向けられている。それは大自然のなかに生活を根ざす人々の変わらない日常ではあるが、しかし彼らの感情や表情、視線から文明的な色は見てとれない。
まるで大自然の木々や山のように穏やかというか、そう、自らを大地の一部として受け入れるような、あるいは大地と共に生きる覚悟とまでは言わないまでも、故郷で生まれ死んでいく生き物の目をしている。あたかも「ホモサピエンス動物園」に囲われた霊長類「ニッポンジン」の一実態を見せられるかのようだ。それというのも、上京で一度は部外者となり、改めて冷静に故郷と原発のありようを考えるようになった山下さんの視線が素直にあらわれた結果かもしれない。
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07© Takahiro Yamashita

冒頭でも触れた通り、山下さんが綴る物語にはもう一人、重要なキーパーソンが隠れている。それは北海道洋画壇を代表する作家の一人であり、ほかでもない山下さんの故郷にあたる岩内町にかつて暮らした「木田金治郎」なる画家だ。
「故郷に根ざし、漁師として生計を立てながらも懸命に自然の美しさと厳しさ、そしてそこに生きる人達の息づかいを丹念に描き、自身の画業を積み重ねてきた」木田金治郎に山下さんが初めて出会ったのは高校生のころ。美術の課外授業で、開館したばかりの木田金次郎美術館を訪れた。
そのときは「何だか夢を見ている様な不思議な感覚に陥った」ものの、それを「感じる」ほどには至らず、実際にきちんと正面から受け止めたのは、故郷の地を社会的な視点から撮り始めた4年後のこと。 久しぶりに訪れた美術館で、思いがけず1枚の絵の前で立ち止まる。
それは夕日の絵だったという。「どうしてなのかは未だに言葉で説明する事は難しいが、有り体に言ってしまえば『感動してしまった』という事なのだろう」 と語る。「感動した」ではなく「感動してしまった」と表すあたり、それはもしかすると未知なるものとの予期せぬ遭遇(アクシデント)であったのかもしれない。言葉では表しにくいものと遭遇し、それによって、山下さんのなかでそれまで凪の海のようにピタッと静止していたなにかが震え出し、覚醒したようだ。
画家、木田金治郎はある時期から「随分と変わり、自然の厳しさを感じさせる様な力強いタッチへと変わっていった」という。そのきっかけとして「多分、市街の8割りを消失させた1954年の岩内大火が大きな切っ掛けとなっているのだろう」と山下さんは推測する。
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2014_21lu© Takahiro Yamashita

「この経験で私の仕事はきっと変わる。今までは習作だった。焼けたものを記憶してくれる人もいるだろう。これからが本当の仕事だ」

木田金治郎

命をも脅かす予期せぬ災難と遭遇し、そこでの気づきが木田金治郎を第二の人生へと突き動かした。この意思表明とも言える作家の声明は半世紀の時を越え、現代に生きる山下さんの心になにかを残したようだ。それは東北大震災を経験してこその出会いだったのかもしれない。
「直接太陽を描くものが登場している様に、やはり故郷の夕日はどうしようもなく感動的なものなのだろうし、私自身も積丹半島(しゃこたんはんとう)から望む夕日は一番美しいとも思っている。あの光はまぎれもなく私の故郷なのだと根拠もなく思えてしまう」と山下さんは、心に触れた思いを素直に描写する。
樋口健二と木田金治郎の2人から問いかけのバトンを引き継いだ山下さんが、故郷を意識して撮り始めたのは2007年から。原発を抱える北海道の大自然、そしてそこに暮らす人々の有りよう。景色の大半は白くとんだ雪や冬空といった冬景色によって描かれる。
やはり山下さんの視線の先にあるものは原発のようで、そうではなかった。それは自然であり北海道であり岩内町であって、はたまた家族であり、そこに暮らす人々であり町であり、あるいは木田金治郎であって、積丹半島から望む夕日でありその光。そして樋口健二の導く原子力発電所がある「故郷」なのだ。これらが渾然一体となって重なり合い、ひとつの景色を作りだしている。
山下さんが素直な気持ちで「いつか起こってしまっても仕方がないと思っていた事が、私の故郷でなくて良かったと心の底から思ってしまった事を否定はできない」と語るほど、あの惨事が日本人の心に傷を残したことは間違いない事実だ。
それでも私たちの生活は続き、そこに天候の変化こそあれど、いつも陽は差す。冷たく凍える一日であったとしても、太陽は暖かく、自然はうつくしい。どんなことになろうとも人々は故郷に生きたいと願う。この写真家の写真はとても丁寧で、落ち着いていて、なにより、冷たさのなかに暖かさが感じられる。
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私が生まれたこの町を、丁寧に撮らなければいけない。そう画家の木田金次郎に教えられた

山下隆博 公式ホームページより

木田金治郎の決意表明を手がかりに、それをこの時代に置き換えて自らが示すべき道標を、大地の光と鼓動を合わせながら描こうと試みる。
吹雪と凪、自然と私たち、冷たさと暖かさ。まるで雪解けの瞬間のように、相矛盾するものたちの拮抗が刹那の時に刻まれ、いよいよ写真らしくなる。それは先人の芸術家が灯した生命の炎、そして北海道の大自然に凍てつくブリザードによる拮抗かもしれない。

壮大なものたちを理解するには、あまりにも私たちはちっぽけだ。そのことを忘れ、いよいよ科学が神の領域に近づこうとすればするほど、かつて手にしていたものはこの手からこぼれ落ちていくようにも感じられる。そこにきて、白雪のような1人の青年が挑んでいることはなにか、私たちが万物を理論と科学で把握しようとする側面とは異なった、自らの血と大地との言葉なき対話のようである。

きっとこの対話はこの写真家が生き続ける限り継続され、物語は大地を張る根のように無数に広がっていくことだろう。その先でいつかきっと青年自身が見出していくであろう、故郷の光。それが一体どんな色、どんな味で、どんな囁きなのか——。この若き写真家が写真の先に見つめるものを今後も追いかけたい。■

執筆:2014年11月25-26日/8時間/129リビジョン/3,441字

 

写真集『吹雪の日/凪の海』はリブロアルテより発売しています。ぜひ一度、お手にとって御覧ください。

リブロアルテ『吹雪の日/凪の海』販売ページ
http://www.libroarte.jp/takahiro_yamashita.html

また本作品は作家ホームページにて写真集未収録のものと合わせて公開されています。2007年時から2014年までの軌跡が一年ごとに公開されており、写真集と合わせて御覧いただくとより作家の意図に触れられます。

山下隆博ホームページ
http://takahiro-yamashita.co.uk/

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濱田祐史は少女に問われ、目に見えない光芒から天地創造の景色を暴露させる。

私たちの景色。風景でも街でも町でも都会でもなく、景色。その木々のスキマから、柵のスキマから、はたまた公園の遊具のスキマから、光の道筋が一線となって伸びている。それも、放射線状にいくつも。なにも写らないが、なにかが写っているような。写らないものがおぼろげに、写真に立ち篭もる。
写真家、濱田祐史さんにとって初となる作品集『photograph』は、いわゆる「光芒」(こうぼう)を題材にしたものだ。たとえば冬の早朝、高くそびえる山の上では朝霧に包まれ、雲から大地に向かって放射線状の光がもれることがある。そんな神秘的な光景を、もっと身近な風景に見出そうという試み。それが濱田さんの『photograph』である。そして「光芒が伸びた景色」が本書では、全編にわたって続く。

©Yuji Hamada, Courtesy of the artist and Photo Gallery International

実はこの光芒、濱田さんが作為的に生み出したものだ。霧の代わりに煙を焚き、長時間露光することでその存在を靄(もや)程度にまで深めた。しかしそれは長い時間を露光するから見出せるわけで、まさしく写真のなかでのみ存在する空間だ。撮影時においては濱田さん自身も、どこがどのように作用するか知る由もない。そこで光を探り当てるかのように、濱田さんは写真の画角に入り込み、様々な光を探したという。
この不思議な「見えない光芒探し」。きっかけを、濱田さんはこう語る。

2005年のある日の夕暮れに、私は公園で一人の少女と出会った。その子は手のひらに、熱心に光を当てていた。そして「この光はどうやって、どこから来るの?」と私に質問した。私は、太陽から放射されて長い距離をかけてここまで来ているのだろうと考えた。けれども彼女が求めている答えはそんなことではないように思えて、応えることができなかった。

(濱田さんが本書に寄せた原稿より引用)

 

©Yuji Hamada, Courtesy of the artist and Photo Gallery International
©Yuji Hamada, Courtesy of the artist and Photo Gallery International

「光よあれ」—。天と地を創造した神が初めて口にした言葉。神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

祝福の笑みが、一面にこぼれる。なんてことのない日常の風景が、あらためて景色となる。私たちは、心に描くランドスケープを「景色」という。かつて荒木経惟があらゆるものに景色を追い求めたように、それは得てして「世界」である。

1枚の四角い箱庭として完成される写真。ともすれば、たいへん狭く息苦しい空間だ。それを押し広げるのは、私たちの心である。濱田さんは見えないところに心を感じ、景色を切り取る行為を『photograph』でおこなった。ここで忘れてはならないのは、『photograph』に移し込まれた光芒を見ることが大切なのではなく、その先にある「見えないもの」への心である。

©Yuji Hamada, Courtesy of the artist and Photo Gallery International
©Yuji Hamada, Courtesy of the artist and Photo Gallery International

そのうちに、ヤコブは夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている」

旧約聖書創世記 28章12節

 
光芒への畏怖は『旧約聖書』のみならず、私たち日本人にとっても馴染み深い。
古くは『古事記』を紐解けば、たやすく天照大神(アマテラスオオミカミ)に行き着く。黄泉の国から帰還した伊耶那岐命(イザナギノミコト)は三柱の子を産む。それこそ月読命(ツクヨミノミコト)、須佐之男命(スサノオノミコト)、そして天照大神である。このツクヨミとは月であり、アマテラスとは太陽。

岩戸神楽ノ起顕(三代豊国)
『岩戸神楽ノ起顕(三代豊国)』 – Wikipediaより引用

この神話においてスサノオはトリックスターとして大暴れする存在だが、それに怒ったアマテラスは天岩戸(あまのいわど)に隠れてしまう。かくして世界は再び暗闇に覆われ、それに困った神々が天鈿女命(アメノウズメノミコト)に激しい踊りをさせ、それに興味をそそられ岩戸を開いたアマテラスを外に引き出す。
このとき、飛び出たアマテラスを後光が放射線状にえがかれる。このように、光とは尊く、そして畏れ多い超常現象であって、それは人類の何千年の歴史においてまず始めに語られてきた。
だからといって、大自然のなかで雲から差し込む光芒を撮れば、それが伝わるかといったらそれはただの自然写真だ。これは風景としての存在でなく、心で受け止める景色なのだから。写真家が写真家たらしめるのは、眼に見たものから、見えないものを引き出す行為であるのだから。私たちにとって馴染みある街並みに、煌々と照らされた光芒。そこにこそ、見出せるものがある。

彦星の 妻迎え舟 漕ぎ出らし 天の川原に 霧の立てるは

山上憶良『万葉集』8 1527

©Yuji Hamada, Courtesy of the artist and Photo Gallery International
©Yuji Hamada, Courtesy of the artist and Photo Gallery International

公園で出会った少女は、濱田さんが映し出した景色を見てどう感じるだろうか。人が光に感じるものは悠久の時と文明発展を経てもなにひとつ変わらない。人は言葉を得て社会を築き、科学とテクノロジーをもっていよいよ万物の起源に迫ろうとしている。その一方で、1人の少女の問いひとつにも答えるのが難しくもあるのはなんとも皮肉なものだ。

そんなとき、写真にできることはあるかもしれない。濱田祐史『photograph』に差し込む、写真のうえでのみ見出せる光芒。そこに、幾千年の時を経てなお私たちがまだ感じることのできる、天地創造の景色を見た。■

濱田祐史 写真集『photograph』は〈Lemon Books〉より700部限定で刊行。4種の箱から好きなものを選択できます。お求めは〈flotsam books〉にてどうぞ。

flotsambooks –  濱田祐史『photograph』販売ページ
http://www.flotsambooks.com/SHOP/PH01830.html

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【インタビュー】名越啓介『BLUE FIRE』
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戦場写真家が日常に見出した生命の狂気

9月1日、16時30分。丸の内線経由で東京駅に降り立つ。降りしきる雨とここ数日の寒冷が、早くも秋の到来を予感させる。この日、私はある男と丸ビル5階で落ち合う約束をしていた。
地下の直結通路から丸ビルのエレベーターに乗り込む。約束の時刻より、まだ30分は早い。しかし5階まで上がりきった16時36分、ケータイにメッセージが。「荷物がたくさんあるので中央のテラスにいますね」。すぐさま吹き抜けのテラスへ。その先に、大きく手を振る男の姿。亀山 亮さんだ——。
アフリカの紛争地帯を7年にわたって写した『AFRIKA WAR JOURNAL』刊行から2年。写真家、亀山 亮さんが新たな個展を開催する。この展示内容について話を聞かせてもらうため、わざわざ東京駅まで来てもらった。涼しげな演出がされたテラスに辿り着くとすぐに、亀山さんは謙遜に近いことばをいくつか続けたが、それに反して屈強な見た目の身体がずっしりとした独特の気概を臭わせた。
亀山さんの荷物が多いことも考慮し、周囲の店にも入らず、このままテラスで落ち着くことに。 たしかにずいぶん重装備の様子。剣道の竹刀袋も持っていたりと、なにやら異様な出で立ちだ。

「なんだかすごい量の荷物ですね」と尋ねると、「金沢いったあと、沖縄でワークショップに出て欲しいって頼まれて。せっかくだから、あっちの仲間と会って、そのあと魚突きしようと思ってさ。それでこの荷物なの」との返答。さきの竹刀袋には銛(もり)が収まっているらしい。

この数分前、亀山さんは東京に着いたばかりだった。金沢のギャラリー「SLANT」で9月6日から始まる個展のため、八丈島から飛行機でやってきたのだ。このあと、千葉にある実家に寄り、そのまま今晩には金沢へ向かうという。そのわずかな隙間を縫って、会う時間を作ってくれた。

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亀山 亮『Day of Storm』図録表紙

『Day of Storm』——〝嵐の日〟と題された今作。1冊目の舞台となった〝アフリカ=紛争地〟とは打って変わって、亀山さんの暮らす八丈島が舞台だ。展覧会に合わせ、この展示会場でもある金沢のギャラリー「SLANT」から図録が刊行された。
亀山さんはこの7年間、八丈島で暮らしている。八丈島は、東京都から南方に続く伊豆諸島のひとつ。行政区分は東京都八丈町となる。つまり東京の島だ。気象庁によれば、火山活動度ランクCの活火山。空路か海路で渡り、特産品はくさや、焼酎、黄八丈などなど。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

 「17歳の時、初めて(八丈)島まで遊びに行ってさ。そのとき、当時26歳くらいの男の人と島で仲良くなって……」。亀山さんが、八丈島に関わるようになったきっかけを話してくれた。

「17っていったら思春期じゃん? 社会の中で、うまくやれてなかった。その彼も、ドロップアウトして島に住み始めた人。それで、年は違ったけど意気投合して。彼はその2年後に死んでしまうのだけど、それまでは彼に会いに、ちょくちょく島を訪れるようになったんだよね」

1人の男との出会いから身近な存在になっていった島は、のちに亀山さんのパートナーとなる女性の故郷でもあった。偶然が偶然を呼び、やがて亀山さんは八丈島で暮らすことを決意する。

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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

「戦争のときは、撮るぞ!って意気込みでいくけど、(島での)私的なことの場合、撮っても撮らなくてもいいや、って感じで。撮らないときもあったし、人に見せたいとかでもなかった。ただなんか、ふとした瞬間にカメラを持っていて、ああ、いい感じとか。たぶん、それはカメラマン独特のものだと思うよね」
実際、今作『Day of Storm』は、亀山さんの眼に映った情景の数々である。
前半は、八丈島末吉地区で毎年8月15日に開催される盆踊りでの高速マイムマイム〟。なんともキャッチーな名だが、これはいわゆるマイムマイムを少しずつスピードアップさせ、しまいには身体も追いつかないほどのリズムに達するという、なんとも意味不明な新型ダンス。詳しくは分からないが、つい数年前、この島で独自の発展を遂げたらしい。
後半では一転し、亀山さんが〝いい感じ〟に触れてきた瞬間のスナップが断片的に編まれる。牛の目、無数のカモメ、生まれたばかりの赤ん坊、焚き火、袋をかぶった男、時に髪を逆立て、時にうつぶせる狂気じみた女性……。どれも日常のワンシーンを切り取ったものなのだろうが、意図的な編集もあって、どこか不吉さが宿っている。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

とは言え、極私的なスナップショットがつづくわけだから、解釈するうえでなにか頼るものが欲しい。そこで役立つのが、写真のひとつひとつに添えられたキャプションだ。たとえば八丈島の盆踊り。次第にテンポ早くなっていくリズムに合わせて踊り狂う人々が、これでもかと映し出される。
そのキャプションには「2日間、老若男女が櫓(やぐら)を中心に踊り回る」「子どもたちもノリノリ」「昼間、建てつけた櫓が倒れないか心配だ」などとある。夏祭りに夢中になる人々の様子は、喜びやおかしさを突き抜け、どこかルナティックに映る。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

読み込んでいくと、或る2枚の写真に添えられたキャプションに目が留まった。

幾人かの女子たちがマイムマイムの輪になりながら、黄色い声を上げている1枚には『「ハレ」の日』というキャプションが。また、その数枚あとには2人の男が腕相撲をとる1枚があり、そこには『「ケ」の日々』とある。


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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

「ハレ」と「ケ」。「ハレ」とは「晴れ」であり、儀礼や祭りといった「非日常」を表す。「ハレの日」は日常から一転して、衣服は「晴れ着」、食事は「モチや赤飯」、空間は「晴れ舞台」となる。対して「ケ」とは「褻」であり、「日常」を表す。「ハレ」と「ケ」では、言葉遣いや立ち振る舞いにも区別がある。
また「ケ」の日々が続けば〝気が枯れ〟る。これが「ケガレ」だ。ときおり「ハレ」(非日常)が挟まることによって「ケガレ」(気枯れ)は清められ、再び「ケ」(日常)の日々に戻るだけの精力がつく——。近ごろではつい忘れがちな感覚だが、それでも今なお我々の生活に根づいた伝統的なものである。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

この「ハレ」と「ケ」を頼りに、亀山さんが綴る「嵐の日」を振り返ろう。

前半に展開される「盆踊り」は明らかに「ハレ」だ。普段見せることのない感情をことごとく放出させるかのように、誰もが高揚しながら踊り狂っている(そしてそれは〝高速マイムマイム〟によって印象的に描かれる)。対して後半のスナップは総じて大人しく、日常の淡々としたリズムが目にとれる。言い換えれば前者は夜であり、後者は昼である。
その合間に挟まれるのは、「ハレ」と「ケ」のどちらにも属さない2枚の写真。1枚には、山を背景にした空き地に舞う、ふたつのゴミ袋が映し出され、そのキャプションは「身辺整理したものをゴミ捨て場に投げ捨てた彼は、数日後自ら命を絶った」。もう1枚は大きくブレた暗がりの山道。キャプションは「車で山道を猛スピードで駆け抜ける」——。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

この印象的な2枚は、もしかすると「ケガレ」と言えるかもしれない。
ケガレ、気枯れ、穢れ。それは日常生活でも蓄積されていくが、死や病によって決定的なものとなる。友人の死によって「ケガレ」を抱えた亀山さんが、ほとばしる感情に身を任せ、暴走する。
友の死の未練を乗り越える——。そうして見ると、二枚目のブレた木漏れ日は〝振りまかれた「清めの塩」〟のようにも見えるし、一枚目のゴミを投げ捨てるさまは〝塩を振りまく〟ようにも見える。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

そこまで話すと、亀山さんが応答してくれた。「(これまで自分が被写体にしてきた)戦争の究極は〝死〟でしょ? 僕は死に興味がある。僕の友達は、島で死んだ。僕の父も、会社でのストレスが原因で、僕が25くらいの時に自殺してしまった。日本は自殺する人が多い。年間3万人が自殺している。その手ざわりのない実感とか、実体のない感覚に、僕は違和感がある」
「僕の連れが、精神障害の施設で働いていてね。精神障害という括りもおかしい感じだけど、彼らとよく付き合うようになって思ったのが、自分がそれまで撮り続けていたアフリカのPTSDを抱える人たちの姿と変わらないってことだった。社会に適合する、しない。それは社会が決めていること。そういうのも含めて、分かる人には分かるけど、分からない人には分からないっていう写真の良さに委ねることにしたんだよ」

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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

亀山さんが続ける。「僕は死に興味がある。いくら金持ちでも、死んだら終わり。たまたま僕がやってきたことが戦争だったこともあって、常に現場が死に近かったこともあって、死について色々考える。たまたま僕の周りも、途中で死んでしまう人たちもいた。人間の狂気、戦争の狂気。〝普通〟と〝普通じゃない〟の違いもよく分からない。そういうことを等しく出してみたかった」
亀山亮、『Day of Storm』。これは〝戦場写真家による私写真〟のようでいて、そうではなさそうだ。戦争を駆け巡り、向き合ってきた死への尽きない問い。これが『Day of Storm』においても繰り返されるという点において、亀山さんにとってはこれもまた戦場写真なのかもしれない。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

命を枯らすまで自己存在の理由が問われる現代日本。右へ倣えのムラ社会は今なお国家において健在であり、単一民族の我々がそのなかにおいて生存と繁栄を継続するためには、ケとハレの循環、そのなかにおけるケガレの浄化作用が不可欠だ。それは列島を離れた島においても同じこと。そればかりか、島においてこそむしろ健在であることを、亀山さんは問いかける。
Day of Storm、嵐の日——。亀山さんが写真の先に見つめるものはアフリカでも八丈島でも変わらなかった。生と死の境における、命のふとした気まぐれさ。命のテンションは時に、ふとしたことがきっかけとなって緩み、そして時には途切れる。その弾ける瞬間に対する、正直な疑問。
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亀山亮 写真集『Day of Storm』より © 亀山亮

〝ハレ〟であり〝夜中〟の高速マイムマイムからは生命の狂気的な瑞々しさがこれでもかと劇的に映し出され、しかし〝ケ〟であり〝昼〟の八丈島では一転して、狂気的な死の香りが漂う。理屈や思考を超えた、コントロール不可能な生命のもどかしさ。
これから先、この男は冷たくも優しい眼でそれらを見つめ続けていくのだろう。たしかにそれこそ、写真でこそ映し出せる〝見えないなにか〟であり、写真家が見つめる写真の先にあるもののひとつ。そしてそれは、写真行為にこそ成し得る問題提起でもあるに違いない。
——クアアイナで買ったビールも手伝って、たがいに緊張もとけ、与太話になったところで取材終了。膨大すぎる荷物をふたたび背負った亀山さんは沖縄での釣りをただただ楽しみにしているらしく、竹刀袋に入った銛を強く握りしめ、「がんばってね!」と言い残し、すばやく去って行った。■

亀山 亮さんの個展『Day of Storm』が本日、9月6日(土)より金沢のギャラリー「SLANT」にて開催。本日19時より亀山さんによるトークショーも。また同日より富山県にて写真家・田附勝さんとの2人展『亀山の眼 田附の眼』も開催しています。
 

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亀山亮 写真展「DAY OF STORM」

2014年09月06日(土)ー 2014年09月28日(日)
会場:SLAN / 入場無料
http://www.slant.jp/

亀山 亮トークショー
『戦場カメラマンが見た パレスチナ、アフリカ』

日時:2014年9月6日(土)
18:30開場 19:00開演(約1時間)
会場:金沢21世紀美術館地下「シアター21」
石川県金沢市広坂1-2-1
入場料:500円
WEBSITE

 

60549田附勝・亀山亮二人展
「亀山の眼 田附の眼
みえるものとみえないものとの境界」

2014年09月06日(土) – 2014年11月09日(日)
ミュゼふくおかカメラ館
〒 939-0117 富山県 高岡市 福岡町福岡新559番地
TEL: 0766-64-0550
WEBSITE

 
 

男は女に景色を見た。それは自分であり、無であり、夢であった。

[掲載:2014年7月16日]

横田大輔さんの写真集『LINGER』。裏表紙に書かれた「彽徊」(ていかい)とは、「LINGER」の日本語に当たる言葉だ。モノクロの平面世界において、裸婦と心象風景が交互に織り交ぜられ、「彽徊」よろしく「行きつ戻りつ」する。
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この光景をただ美しいと言い切りにくいのは、あと一歩で美しさの邪魔をする「写真の上のゴミ」の存在。これでもかと言わんばかりの存在感を放つそれらは、カメラのファインダー越しに見た世界に近いものがある。
言い得て妙。実際、カメラを覗いて反射鏡についたゴミやキズ、あるいはやはりファインダーについたゴミが拡大され、その目に突きつけられたときには、いざ現実世界を美しく描かんとする意気込みを損なわせるだけの理由となる。これが写真の現実といえば、まさしく。
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しかし人生とは、暇つぶし。
ここはひとつ、横田さんが仕掛けたワナにかかってみることにしよう。そこから見える別世界というのも一興であるかもしれないから。
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「彽徊」—。かの夏目漱石が提唱した語に「彽徊趣味」がある。生真面目な自然主義文学が盛んだった明治時代において、第三者のようなゆとりある気持ちから面白おかしい小説を書いたほうが良い、と。そういうモノの考え方だ。
ここで漱石の小説『草枕』を挙げたい。

世に住むこと二十年にして、住むに甲斐かいある世と知った。二十五年にして明暗は表裏ひょうりのごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日こんにちはこう思うている。――喜びの深きときうれいいよいよ深く、たのしみの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。かたづけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものがえればも心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足をささえている。背中せなかには重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えばらぬ。存分食えばあとが不愉快だ。

夏目漱石『草枕』より一部抜粋

これが「彽徊」だ。この世は崇高立派な思想と大義名分で溢れかえる。この世はインターネットの台頭によって、ますます僅かな歪みも否定され、品行方正な国民諸君であることが求められる。非国民たるレッテルは1ミクロンでも他とズレれば貼られてしまう。希望や可能性は情報の渦に巻き込まれ、ここではない彼方へ。

理想と現実を彽徊するうち、しまいに我々は価値判断すらできなくなった。しかし実のところ、右往左往するところに、我々らしさがある。彽徊とは煩悩であり、未練たらしさ。

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『LINGER』彽徊。1つの部屋に見るは、女と男の情交。うだるような湿気、コントラストの失った平面世界。繰り返し行為される、交わり合い—。そこに愛や恋といったパッションは感じられず、ただ別離を受け入れられない、未練たらしい彽徊のみ。

写真のほうはというと、煩わしいゴミでもって我々の関心を突き放す。そことここがまるで異なる次元であるかのように、二次元と三次元の違いをこれでもかと見せつける。横田さんの世界は、紛れもない写真である。

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恋する女と向き合い、いよいよ互いに肉体をさらけ出し、交わり合う。初夜が最高潮だとすれば、悲しいかな、数を重ねれば、情熱は薄れていく。

男というものは、性行為のとき、ふと冷静になるものらしい。狩りの時代の習性がまだ残っていて、それは敵の不意な奇襲に備えるためだそうだ。ようは男に愛などという言葉を口に出す資格はないということである。

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住みにくき世から、住みにくきわずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、である。あるは音楽と彫刻である。こまかにえば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌もく。

夏目漱石『草枕』より一部抜粋

ますます住みにくい世から、住みにくい煩いを引き抜いて、 ありがたい世界を目に見た通り写すのが、写真である、か。ただまのあたりに見れば、そこに画も生き、写真もく。
横田さんの写真において、人は景色である。『草枕』の主人公もまた、旅先で出会う人々を自然の点景に見立てた。奇しくもこの2人は同じ30歳。俗世間から逃避して非人情の旅に遊ぶ2人が見た先の世界には、やはり1人の女がいた。
非人情とは、義理人情の世界から超越し、それに煩わされないこと。情報化社会、管理システムの整いきった現代において、実に皮肉めいたリアルであり、この我々にとってこそ第1に熟考すべき課題である。そこにもはや女の姿なく、あるのは自分。そしてその自分とは無であり、夢。
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横田さんの『LINGER』を眼前にかまえたとき、ふと「写真よさようなら」と聞こえた気がした。その瞬間、丸顔丸眼鏡の男が妻と辿った旅を想起した。それは「センチメンタルな旅」と言った。
写真集『彽徊』は〈flotsam books〉にて購入可能。
http://www.flotsambooks.com/SHOP/PH01744.html
AKINA BOOKS – LINGER

prey for rain

アダムの肋骨から、イヴは生まれなかった—。知られざるもうひとつの創世記

[掲載:2014年6月8日]

赤いベルベットに、ゴールドで刻まれた「Bible バイブル MOMO OKABE」。その下には謙虚な佇まいをした「SESSION PRESS」の名—。
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写真家、岡部桃さんの『バイブル』。NYのインディペンデントパブリッシャー〈セッション・プレス〉から今月発刊された、岡部さんにとって3冊目の写真集だ。
ハードカバーの大判写真集にしては、なかの写真は予想を裏切るほど荒削り、よく言えば大胆だ。ページを開ければ、裁ち落としの大きな写真が眼に入ってくる。レンズと被写体のあいだをカラーフィルターが介しているのか、写真は赤、青、橙、黄、緑、紫と、いわゆるレインボーカラーの各色にそれぞれ染まっている。
被写体として映り込むのは、東北大震災の被災跡、ゲイパレード、インドの街並み。そして性転換手術を行なっている人々のヌード、上半身は完全に男性へと成り代わった元女性たちのヌード……。詳細は分からなくとも、「LGBT」をテーマしていることが分かるストレートスナップが続く。
LGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの人々を指す頭字語だ。そし岡部さんの写真における虹色のフィルターは、LGBTの社会運動を象徴するレインボーカラーの構成色であることに気づく。
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発行元の〈セッション・プレス〉には、こんなディスクリプションが掲載されている。原文は英語だが、日本語に訳した。

『バイブル』は岡部とその恋人、友人との日々、その揺るぎない複雑さを証明するものである。偽りでない自分自身を遂行することと共に、岡部は明らかにする。
「悲しく、しかし美しい光景。それは、長い長い時の経過と、彼らのトラウマ的な過去との辛い葛藤に打ち勝った時、ようやく理解できるものなのです」—。
岡部作品の誠実さと奥深さは直感的なものだ。つまり、あたかも彼女が万華鏡のようなハートに窓をこしらえたかのように、彼らが共有する疎外感のテンションのうちに、ひとつの美しさをほどくのだ。

 Session Press HPより引用

「偽りでない自分自身を遂行する」とあるように、岡部さんの「恋人」や「友人」は性別の壁を乗り越えて本来の自分自身を手に入れるため、その体にメスを入れた人々なのだろう。そして「悲しく…」以降の下りは、東北大震災の被災地と被災者を、ひいては前述の「恋人」や「友人」の存在も重なっている。「万華鏡」は虹色に染まった写真を指しているのかもしれない。
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ここ日本においては、いまだにゲイやレズ、トランスジェンダーの人々が、いわゆる「オネエ」という〝お笑いジャンル〟で理解されている。商品価値として「需要があるかないか」という物差しでしか測られていないのだ。
話は逸れるが、私はVICE YouTubeチャンネルで『WE ARE OUT!』というシリーズをプロデュースした。これは日本のゲイカップル(英語で〝ゲイ〟はレズも含まれる)の等身大の生活を見せることから、「もうゲイかノンケかを気にするような時代じゃない。あなたの隣にいる人の、心の性別は多様であって然るべきなんだよ」ということを伝えたい—。そんなコンセプトから制作に至ったものだ。

このシリーズは当初の予想を大きく上回るカタチで受け入れてもらえた。それが意味するのは、やはり日本ではまだまだ、彼らの社会的認識は低いということ。
それでも彼らは明るく振る舞う。少なくとも我々が目にする彼らの姿とは、そうしたものだろう。社会に受け居られるイメージとは、いつだって希望に満ちあふれていて、それはビジュアルとしても明るく美しいものでなければならないからだ。
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その点でいえば、岡部さんの写真はその逆を行く。
ディスクリプションにあった「万華鏡」とされる虹色のフィルターはいわゆる「美しさ」とは程遠く、まるで〝色眼鏡〟をかけたように、世の中を偏った視点から見ているように感じられた。だから私には、その色たちが暗く感じ取れた。まるで「メディアがどれだけ誠意を持って〝私たち〟を捉えても、それすらほんの一部に過ぎない」とつぶやくかのように—。
実際、そうなのだろう。本書で時おり挟まれる、性転換手術をした人々のヌードを見たとき、重々に納得させられた。過程こそ女性らしさを残すが、完全に済んだ人の上半身は男性そのもの。しかし股には、女性器が残るのだ。男性にも女性にもなれない、その決定的な壁—。これは、いくら言葉で伝えようともきれい事になってしまうこと。それこそ写真というメディアにできる、揺るぎない事実の暴露。
もしかすると「色眼鏡」は、岡部さんの眼にかけられたものでなく、私たち読み手にかけられたものなのかもしれない。実際、私たちがテレビで彼らを見かけるとき、色眼鏡で見ているのだから。そんな皮肉にも感じられた。
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それでも岡部さんの写真は穏やかだ。性器や手術過程を見せるなど過激な光景はあるものの、感情の波がコップの縁からあふれ出すことはない。極限で留め、あとは社会が揺らすのを待つしかないからだ。自分であふれ出しても、そのあふれ水は冷たい社会にすぐ乾かされてしまうことを、岡部さんはやはり直感的に理解している。その忍耐の日々を、震災の跡に重ね合わせたのだろう。
実にコントラバーシャルなテーマを、繊細かつ奥深い表現力で描いている。それ故に、岡部さんの作品がここ日本で正しく評価されるには、もしかするとまだ時間を要するかもしれない。表紙を包み込む、赤いベルベットの重々しさと気品さは、岡部さんの心の覚悟。
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『バイブル』—。実に挑戦的で、素敵なタイトルじゃないか。いまこの時代を変えることより、ゲイもレズも登場しない聖書そのものを作り直そうという、壮大なスケールが感じ取れる。肉体をいじることは、ともすると創造主への冒涜でもあるかもしれない。しかしその一部始終すら世に露呈させることで、彼らは自らのアイデンティティを歴史に刻もうとしている。
いや、ちがう。彼らは、自分たち独自の創世記と神話の断片を物語ろうとしているのだ。その視点から見るなら、本書で服を脱いだ元女性たちのヌードは〝肋骨からイヴを生み出さなかったアダム〟である。このパラレル神話にイヴは存在しない訳だから、ヘビに惑わされることもない。平穏と静寂の理想世界は、ついに、その世界にこそあるのかもしれない。
写真の世界は昨今ますます窮屈さが増している。「知る人ぞ知る」そんな世界になりつつあると思う。そんななか、狭いパイを取り合うがために、定型とも言えるような、似た写真が乱産されている傾向も感じる。その状況を打破するうえで、岡部さんのような、物事の起源から覆すようなエネルギーと壮大なストーリーは頼もしい。悲しさや絶望を抱えながらも、その先に希望を見出す強い生命力—。そのほとばしる一線の行く末を、これからも期待して追いかけたい。そして彼らが続けていったその先で、真に「美しい光景」に辿りついた岡部さんとその恋人、そして友人たちを祝福できる日を、私はこの目で見てみたいのだ。
 
最後に。奇しくも今年の木村伊兵衛写真賞に、森 栄喜さんの写真集『intimacy』が選ばれた。森さんとその彼氏の日常を続いた本だ。LGBTをテーマにした作品が脚光を浴びたこともあって、これを希望と捉えることはできるだろう。私もできればそう信じたい。しかし敢えてクギを刺すなら、この授賞式の選考委員、写真家は長島有里枝さんが残したコメントが鋭い内容である。これを最後に紹介しよう。

「ジェンダー的な観点から森さんの写真を見る事で、私が一番危惧しているのは、森さんの写真がそのような視点からしか評価されないのではないかということです。どうか広い視野で森さんの写真を皆さんで評価して頂いて、またこれからも活躍をささえて頂ければと思います。

『写真の鉛筆』より引用

岡部桃さんの写真集『バイブル』は〈flotsam books〉にて販売中
http://www.flotsambooks.com/SHOP/PH01687.html

十代終焉に見るアンゴルモア大王の巨影と進化論

Text by Tomo Kosuga
[初出掲載:VICE.com日本版 2014年3月]

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話は唐突だが、キリストのご加護を受けているアメリカでは人口3億人の1/3が進化論を信じていないらしい。

しかし我らが日出づる国、日本だって負けちゃいない。なんたって日本で「年を取ること」イコール「孤独」「この世の終わり」「誰も振り向かない」と、絶望の押し売り状態。年を重ねるごとに悲壮感が増していく現実に逆らうかのように、現代日本では「美肌」「赤ちゃん肌」「マイナス5歳肌」といったアンチエイジング運動がお盛んだ。

それもあるいは美容業界の刷り込み戦略が功を奏したからかもしれないが、とにかくキリスト教原理主義者から見ても、異様なほど現実と向き合えていないSF世界の人種へと進化した日本人。

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未来学者のレイ・カーツワイルは「近い将来、人工知能かポストヒューマンによって人類の科学技術は生物学的限界を超えて加速する。そのことをシンギュラリティと呼び、待ち望もう」と唱えながら、現在66歳の老いた身体をなんとかその日まで維持させるのに必死らしいが(実際、彼の肌は赤ちゃんのようにピチピチだ)、そんな彼にこそ来日してもらえば、この国で起きていることがまさにシンギュラリティだった!と感動してもらえるかもしれない。

高木みゆ『しょーもない私の十代が終わりました。』は2011年9月19日から突如として幕を開ける


続く10月。ホントにしょーもない日々がカレンダー形式で続く

そんな日本人にとって、誕生日ほど〝絶望〟の記念日はないだろう。なんたって1歳ずつ老いていくことをわざわざ人からお祝いしてもらう公開処刑日なのだから。ましてや俗にコドモとオトナの分水嶺とされる20歳、いわゆるハタチなんて、ともすれば天から恐怖の大王が降りてきてアンゴルモアの大王を蘇らせるんじゃないかというほどのガクブル非常事態。いやマジでそういう過去に心当たりのある人、きっといるはず。

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今日紹介する高木みゆも、ハタチのボーダーラインを超えることに異常なまでの恐怖を抱いていた1人だ。「とにかくハタチになるのが怖かった、オトナになりたくなかったんです」と語る彼女。来たるべきセカンドインパクトに立ち向かうため、手元のカメラをロンギヌスの槍に変え、100日の準備期間を設けた。「ハタチになる100日前から1日1本フィルムを撮ろうと決めて。その中から1日1枚を選び出し、その日が来るのを待ち構えたんです」


厳密に言うと宝くじは未成年でも買えるが、万が一にも大金を当てた際の行動には成人力が試される


この1枚だけは微笑んでいる様に見えるのは、アンゴルモアの大王の恐怖にまだ見ぬ主人の愛の力が勝ったからだろう

そしていよいよやってきた、12月28日の誕生日。さあ、彼女は如何なる行動に出たのか—。その答えはページ上部の写真群が教える通りだ。タバコ、酒、婚姻届、ドンキーの成人コーナー、競馬、クレジットカード、パチンコ、宝くじ……。姿形の見えない二十代の重圧から逃れるべく、思いつく限りの「成人行為」をやってはみたものの、ハタチを迎えたからといって聖人君子になれるワケでもなく、やはりしょーもない二十代像を重ねる辺りがリアルで好印象。

どれもこわばった表情がせっかくの彼女のかわいらしさをブチ壊してしまっているけれど、なにせ恐怖の大魔王とにらめっこしている最中の様子なのだから仕方のない話だ。

高木みゆ『しょーもない私の十代が終わりました。』11月分。もう止めてくれと言いたくなる

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巷じゃ十代は、半ばロストテクノロジーのように有り難がられるもの。それに対し、そういや十代ってしょーもなかったっけ……と我に返らせてくれるのが、高木みゆの『しょーもない私の十代が終わりました。』なのだ。


12月分。所詮、大学生活なんてこんなモンである

みゆちゃん、そんなに心配するなって! せめてかわいらしい君の笑顔を見せてくれれば、周りが自然と祝福してくれるから……と思っていた矢先、高木は自身のタンブラーをこのタイミングで新調したらしい。そこに写るのは……元気ハツラツな彼女のポートレート。そうそう、それでいいんだよ。これからも天使のような笑顔で俺たちを祝福してくれればそれでいい。なんたって、写真のなかのキミは永遠に年をとらないのだから……。
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それでも年を重ねるのが怖いと言うなら、ドラ焼きが大好物のネコ型ロボットをマジで作り上げて勉強机の引き出しに組み込んだタイムマシンで原始の時代まで遡り、「アマテラスオオミカミが天岩戸に隠れたのは日除けのタメだった! みんなで一緒にアンチエイジング☆」とか触れ回ってくれば、現代に戻ってきた頃にはみんな岩を背負って歩くイワ人間になっているかも。もっとも俺はそんな進化論、まっぴらごめんだけどさ。
高木みゆ Tumblr
http://takakimiyu.tumblr.com
 

フランスはパリ西部の森に生息する妖しくも艶やかな貴婦人たち

Interview and text by Tomo Kosuga
[初出掲載:VICE.com日本版 2014年3月]

ここは新緑の森。生い茂る草木をかき分けて進むと、木々の先に女が見える。 服装の一部が下着姿という、まるで森に似合わない格好だ。遠くからでも見てとれる、不自然なほど盛り上がったボディは木漏れ日に照らされ、いっそう艶やかに映る。なぜ、こんなところに——? そんな疑問も打ち消すかのように、女が赤い唇を開く。
「ねえお兄さん、楽しいことしてかない?」

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より
中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

〝森で女に誘惑される〟。かるく現実離れしたこのシチュエーション、ともすると小説にこそ相応しい響きだ。男性諸君は好奇心をくすぐられる反面、現実にあるものとはつゆほどにも信じないだろう。しかしこれが世界のと或る場所で、実際に起きていることだとしたら……?

今回紹介するのは、フランスはパリ西部に広がるブローニュの森に夜な夜な出没する、妖しくも艶やかな貴婦人たちの物語である。

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

「ブローニュの森では、夕方から夜にかけて娼婦が出没するんです」

そう語るのは写真家の中田柾志氏だ。2005年と2009年の2回に分けてブローニュの森を訪問。そこに息づく独自文化の実態を記録した。

「森は神聖なイメージだけれど、娼婦は〝欲望〟の象徴。森に娼婦がいるというだけで、面白いなと思って。それで、森が一番見栄えする新緑の時期に訪れてみた」
ブローニュの森があるフランスでは、売春が原則的に合法とされている。或る者は学費のため、或る者は生活のため。おのおの理由があって、男を誘惑する。
もっとも、客を捕まえるには街中が一番。なにより安全だし、客も見つかりやすい。では、わざわざ夜の森を選ぶ者たちがいるのは何故なのか——。 そこには特別なワケがある。

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

「そこの娼婦たちは、大半が元男性なんです」

そう中田氏が証言する通り、ブローニュの森はかつて「男娼のメッカ」と称されるほど著名な売春地帯だった。取り締まりが強まった今でも、枯れ葉をベッドに、木々を背の支えに、性行為に勤しむ男たちの姿は絶えない。

森での交渉はたいてい、4,000〜5,000円程度で成立するという。
「お客は労働者が多いみたいです。森の中で済ませる者もいれば、車で女の子をピックアップしていく者もいる。なかには急ごしらえの小屋を建てている人もいましたよ」

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

最初の1人を見つけたときのことについて、中田氏に訊いた。

「遠くから見ても、あれは男だろうなと思いましたね。ちょっと異質なものというか。ゴツくて、男の性欲が沸くような感じではなかった。でもブローニュの森はとても広い。どこに出没するかなんて見当がつかない。それだけに、見つけた感動もひとしおでした。本当に存在したんだ!って」

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より。目をこらすと腰にツノが生えていることに気づく

もはや珍獣のような輝きを放つ貴婦人たちだが、その舞台であるブローニュの森も負けていない。「ブローニュの森」と聞いて、人によっては思い浮かべる出来事があるはずだ。そう、佐川一政が起こした「パリ人肉事件」である。

時は1981年。フランス留学中の日本人学生、佐川一政がオランダ人女性留学生を殺害。屍姦後その肉を食べ、一部を保管していた事件だ。この事件が発覚した場所こそ、ブローニュの森だった。遺体が収まったスーツを池に棄てようとしたところ、目撃され逃亡したあげく、佐川は逮捕されたのである。

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

時代を震撼させた悲劇から30年余り。今なおブローニュの森において〝生臭い〟賑わいが衰えることはない。その実態をわざわざ記録しようと訪れる者は珍しいようで、それなりの歴史を持つブローニュの森の貴婦人たちをベッヒャーに倣った類型学的作品にまとめたのも、中田氏が初めての様子。 どうやらこのブローニュの森とやらには、日本人を惹きつけて止まない魅力が秘められているようだ。

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

様々な歴史も相まって、なにやら危険な香りが立ちこめるブローニュの森。その撮影たるや、相当な緊張感で押し進められたのでは?と思いきや、中田氏の答えは真逆だった。

「撮影自体は淡々としてました。彼……いや、彼女らを見つけたら声をかけ、撮らせて欲しいと頼む。意外に陽気な人が多いせいか、みんな乗り気でしたよ。それから一応、交渉の段階でサングラスをかけるかどうか訊くようにして」

そんな森の貴婦人のなかにはどうやらホンモノの女性も混じっているらしい。しかし顔にかけたサングラスが性別のボーダーラインを絶妙に覆い隠してしまうのも手伝って、なかなか判別がつかない。この人は女性ですよね?と訊いても、中田氏に「男だと思いますけどね〜」と否定されること数回。
「元男性はどうも〝出したがる〟人が多いようで。何枚か撮ると、自らオッパイをポロリし始める人もいましたよ」

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

中田氏が並々ならぬ情熱で写した『ブローニュの森の貴婦人たち』。これも見る人によっては、奇抜さの行きすぎた作品に思えるかもしれない。実際、中田氏が手がけた他作品を挙げてみても、ドイツのエロスセンターやタイの女子大生、インターネット上で「モデルします」と告知する女性を写した写真シリーズなどなど、いわゆる性をテーマにした作品が目立つ。しかしかつては、15年にわたって「環境破壊」をテーマに追いかけるシリアスな写真家だったというから驚きだ。一体なにがあって、こうまで変貌を遂げたのか?

「たとえばアラル海という、世界で4番目に大きな湖があって。旧ソ連時代の無謀な農業制作が原因となって、その面積はどんどん小さくなっている。それからツバルという国。これは世界で4番目に小さい国なんですけど、地球温暖化で海水が上昇している」
「このふたつは、真逆の理由で将来なくなってしまうのでは?と言われている。それらを一緒に見せたりだとか。そういう環境系のマジメな写真を撮っていたんです」 しかしお告げは突如として下されるもの。「ツバルから帰国して、ふと思った。なんで自分はこんな写真を撮っているんだろうと。それで無性に、真逆のことをやりたくなったんです」。
自問自答の末、中田氏が導き出した答えが……「環境の真逆といったら、エロだった」

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より

中田氏が最後に〝森の貴婦人〟を写したのは2009年。それからの5年でも変化はある。今年フランスでは売春行為を撲滅する動きが活発化。昨年末に下院で可決された法案は、買春者(客)に最低1,500ユーロ(約20万8千円)の罰金を科すという内容だった。 パリの珍獣ならぬ、森の貴婦人たち。

「世界広しといえど、森娼がいるのはここくらいなんじゃないかと思いますね」
そう中田氏がクギを刺すように、陽気な彼女たちは他でなかなか見られない貴重な存在だ。その生態に至っては、世の流れ次第では今後見られなくなってもおかしくはない。本作の歴史的価値は計り知れないものがある、とは果たして言い過ぎだろうか。

中田柾志『ブローニュの森の貴婦人たち』より、地面に捨てられた大量の使用済み避妊具

パレスチナ、イラク、アフガニスタン…紛争地を駆け巡った男が日本の 孤独死 に見たもの。

Interview and text by Tomo Kosuga
[初出掲載:VICE.com日本版 2014年3月]

「命を懸ける」——。言葉で言うのはいとも容易いこと。実際、それを実践した人間がこれまでにどれだけいただろうか。今日ここで紹介するのは、自らが信じるものに命を懸ける人物だ。

その男、郡山総一郎が命を懸けて信じるものとは「写真」である。それがどれほどの覚悟なのかって? かつては紛争地でシャッターを切り、かつてはイラクで拉致され、かつては「写真と生活、どっちが大切なの?」と問う伴侶に「写真」と即答して天涯孤独の身となった、とでも言えば伝わるだろうか。実際、いま並べたことは郡山総一郎が体験してきたことである。

1971年生まれの郡山が初めてカメラを握ったのは2000年のこと。29歳でスタートという、いわゆる遅咲きだ。しかし行動力が並じゃなかった。この男が最初の被写体に選んだのは、近所のお花畑でも自分の友達でも彼女でもなく、民衆抵抗運動が再燃して激しく動き始めた頃のパレスチナだったのだから。

パレスチナ、イラク、アフガニスタン、タイ深南部——。世界の紛争地を駆け巡ること11年。立派なフォト・ジャーナリストとなった男は或る日、転換期を迎える。東日本大震災だ。それまで日本なんて見向きもしなかったこの男は、まるで覚醒したかのように日本を撮り始める。被災地となった東北地方はもちろん、いま彼が夢中で追っているのは「孤独死」。

無垢な笑顔がひときわ目立つこの男、きっと面白いエピソードを語ってくれるハズと突いてみると、出るわ出るわ、写真を巡る物語の数々。東北大震災直後に向かった福島での奮闘、実際に清掃業に従事しながら写した孤独死、そして2004年にイラクで体験した恐怖とそこに至るまでの紛争地での11年……。計13,000字、14ページに及ぶ「郡山総一郎 人生劇場」をここに披露しよう……。


写真集『FUKUSHIMA × フクシマ × 福島』(新日本出版社、2013年)より

——東日本大震災から3年が経ちますね。郡山さんは福島を題材にした写真集を昨年末に出されてましたけど、初めは仕事で撮り始めたんですか?

郡山総一郎:そうですね。地震が起きたとき、僕は新宿の自宅にいたんです。さあ、週刊誌の張り込みに行こうと立ち上がった瞬間、大きく揺れた。調べたら、宮城が震度6強。これは被害が出ているはず、行かなきゃと思って。でもクルマが必要だと。「フライデー」なら、張り込み車輌をいっぱい持っている。電話しても通じないから、行っちゃえと。護国寺まで10キロを走って40分。7階まで駆け上がって「編集者1人と記者ちょうだい」と頼んだんです。地震発生から2時間後には現地へ向かっていました。

——行動が早いですね。そんなに早い動きだと、福島に向かう道程で入ってきた情報はまだ少なかったんじゃないですか? 車の中ではどんなことを考えてました?

1号機の爆発は後で聞いて知ったんですけど、そのとき頭に浮かんだのが酪農家だった。しかも牛のいない牛舎。それが撮りたいと思ったんです。でも福島にはツテがない。そこで、JA(農業協同組合)関係のカメラマンに紹介してくれと頼んだら、浪江町津島の酪農家を紹介してくれて。4月には現地入りしたんです。そして1番怒られ、追い返された酪農家さんのところに2ヵ月半もお世話になることになりました。


写真集『原発と村 Vanishing Village』(新日本出版社、2013年)より

——その酪農家さんからは、なんて言われたんですか?

「忙しいから帰ってくれ」と。僕の前に外国メディアが入っていたみたいで。それに対して怒ったところに、僕がやってきた。入りは良かったんですけど、「撮らせてもらっていいですか?」と言い出したら怒り始めた。それから2、3日、福島市内のホテルから1時間かかけて通い詰めて。すると3日目、昼時に「メシ食ったか?」と訊かれた。「どこ泊まってんだ?」「福島市内です」「遠いな、うちに泊まってけ」と。そのまま2ヶ月半、居座らせてもらったんです。


写真集『原発と村 Vanishing Village』(新日本出版社、2013年)より


写真集『FUKUSHIMA × フクシマ × 福島』(新日本出版社、2013年)より

——当時、津島の放射線量は?

当時は飯舘村の線量が高い高いと言われていたけれど、そのすぐ側にある津島の放射線量は飯舘村の3倍だった。空間で30マイクロシーベルト。999マイクロシーベルトまで計れる線量計が、軒下では振り切れた。つまり1ミリは超えていたんです。それでも住民は現地の線量を全く知りませんでしたね。

写真集『FUKUSHIMA × フクシマ × 福島』(新日本出版社、2013年)より

これは1年遅れの結婚式。この方の娘さんは3月12日に式を挙げる予定だった。それが震災で出来なくなって。1年後の3月13日に式を挙げたんです。これはちょうどリハーサルの最中ですね。「気持ちのピークは11年だったのに、すっかり1年遅れてしまった。でもやっとできて安心した」と仰ってました。今はお孫さんも生まれて。福島に戻って生んだんです。


写真集『FUKUSHIMA × フクシマ × 福島』(新日本出版社、2013年)より

これは作業員さんたち。3月11日、彼らは原発内にいました。当時はヤクザとの繋がりがどうだとかで、作業員さんが叩かれたじゃないですか。でも実際は、他から来た人たちなんて事故後すぐに逃げちゃった。それでもやると言ったのは地元福島の人たち。自分たちは線量いくら食ってもいいからって。このうちの2人は100ミリシーベルトの限界をとっくに超えていて、1人は積算線量計で268ミリ食ったって。

ここには映ってないんですけど、仲良くなった方には社員さんもいます。或る方は震災当時、吹き飛んだ建屋の破片をどける作業をしていました。その前には線量を図る作業を独りでされていた。たった20分で5ミリの線量を食ったとか。それでも瓦礫をまず片付けないと、作業員が中に入れない。本来はクレーンで作業するところを、時間がないからと手作業でやっていたんです。そして彼も線量がパンクしたと。

——皆さん、体調はその後どうなんですか?

この写真に写っていない人がいるんですけど、目の前で3号機からピンク色のキノコ雲が上がるのを見た人がいます。彼は医者から、甲状腺にポリープができていると言われたみたいですね。


『Apartments in Tokyo』より

——この3年で被災地を追いながらも、新たに追いかけているテーマが「孤独死」だとか。

そうなんです。最初は週刊誌の編集者から「郡山さんにもってこいの企画ありますよ」と振られて、2013年の5月と8月に取材したんです。すると、これは面白いなと思い始めて。清掃会社の社長に頼み込んで、現場が出たら行かせてもらうことにした。でも連絡はいきなり来るから、週刊誌の仕事と同時進行ができない。だから一時期は週刊誌の仕事を辞め、その清掃会社にバイトとして雇ってもらったんです。見積もりの時には撮影、それが終わったら作業をする。そういう感じでやるようになりました。

——確かにそれが手っ取り早いけど、これまた極端な! 清掃会社で働いてみて知ったことは?

印象に残っているのは、ニオイとかじゃない。時間が止まった気配というか。さっきまで人がいた感じ……たとえば友達が買い物に出ていて、誰もいない部屋に上がり込んだ感じというか。そういう雰囲気なんです。


『Apartments in Tokyo』より

——郡山さんは紛争地で悲惨な光景を数多と見てきたと思います。そんな郡山さんの目に孤独死の現場はどう映りました?
今までにないくらい「リアルな死」というか。孤独死した人のことは概要しか知らないはずなのに、作業を始めると人物像がだんだん出てくる。たとえばどんな本を読んでいたか、どんなものを食べていたとか。部屋に残されたものが物語ってくるんですね。
初めこそ、目がいきがちだったのは人型に残った跡とか、床に残された体液。でも次第に、そういうものは撮らなくなっていって。代わりにベッドのシワとか、テーブルに残されたものとか。そういうものが気になるようになりました。あと清掃作業って、どんな部屋でも大体4時間で跡形もなくなるんです。その儚さ。撮る意味はあると思いました。


『Apartments in Tokyo』より

たまに現場に遺体を引きずった形跡があって。今年2月アタマに行った現場は、故人が150キロの体重だったらしく、ベッドからリビングまで警察が引きずった形跡があった。抱えられなかったんだなと思って。他にも、日にちの経った遺体を部屋で落としちゃったのか、タプタプに腐った内臓がピチャッ!と飛び散った跡とか。とにかく気配はいろいろ残っていて、それに驚きましたね。

今じゃもう、孤独死の部屋という意識もなく淡々と撮っています。もちろん部屋に入る前には訊きますよ、孤独死した部屋なのかどうかって。自殺の現場は撮らないから。でも部屋に入ったら、もう忘れている。ニオイも気にならない。


『Apartments in Tokyo』より

——実際に清掃の現場に就いてみて、なにか感覚的に身についたことってあります?

孤独死しがちな部屋、というのが分かるようになりました。清掃の依頼が入って、現場近くまで行くじゃないですか。どの部屋か知らなくても、外から窓を見れば分かる。あー、あそこかって。そういう部屋は他人を寄せ付けない雰囲気があるんですね。窓に段ボールを貼っていたりだとか。

それから遺体は腐敗しているケースが多いので、部屋に人型の跡が残っていることがあるんですけど……

——えっ、人型!? それって〝体液〟が床に染みついてできた跡……ですか?

そうですそうです。その人型の8〜9割が、頭を玄関に向けているんです。苦しくて倒れたあと、外に出ようとするんでしょうね。そして力尽きると。

それから孤独死って天涯孤独のイメージがあるじゃないですか。僕は20〜90代まで見てきましたけど、実際は違うんです。大半のケースにおいて親族は周りにいて、しかも近所に住んでいる。或る現場の男の子は、母親が徒歩10分圏内に住んでいた。だけど2ヵ月間、彼の死に誰も気づかなかった。座った状態でミイラ化していたらしいですよ。それが見つかった理由にしても、おそらくは〝体液〟が下の階に染み落ちて発覚したんじゃないかと思うんです。


『Apartments in Tokyo』より

或るNPO団体の計算では、23区内で1日10〜20人が孤独死で亡くなっているらしいです。最近多い現場は都営住宅ですね。都営が全部空いちゃうんじゃないかってくらい、依頼は多いです。23区内で多いのは、練馬、板橋、北区、足立区、墨田区辺りかな。

——ところで郡山さんって、もともと戦場カメラマンなんですよね?

自分ではドキュメンタリー・フォトグラファーと言っています。報道写真家やフォト・ジャーナリストと名乗っていた時期もあったんですけど、今は紛争地っていうイメージではなくて。

——とは言え、あの「イラク人質事件」に巻き込まれた郡山総一郎さんですよね……?

あ、そうです。ネットでは知らない人が色々と書いてるんで、困ってるんですよね。


タイ南部ヤラー県バンナンサター郡にてタイ国軍のパトロールに同行中の郡山氏(2011年)

——紛争地を駆け巡って、イラクでは拉致され、それでも今なお活動を続けているってことですね。郡山さんがどんな人生を送ってきたのか、興味があります。長くなると思うんですけど、その写真人生を初めから聞かせてもらえますか?

(笑)じゃあ最初から話しましょう。まず僕、初めてカメラを握ったのが29歳なんですよ。それまでは大型運転手をやっていて。九州の宮崎県で、雪印の牛乳を運んでいた。そしたら2000年、雪印集団食中毒事件で大打撃を受けて。配達よりも返品の方が多くなった。30代目前だったこともあって、なにか別の面白いことをやろうと。ふとテレビを観ていたら、パレスチナのインティファーダ(民衆抵抗運動)が流れていたんで、そこ行こうって。

——えっ、そんな唐突に? もっとなにか理由は?

それが特になくて(笑)。ただ、小学生の頃に『アサヒグラフ』とかで石川文洋さんや沢田教一さんの写真を見ていた。なんでこの人たちはこんな想いをしてまで撮っているんだろう?という疑問はあったんです。こればっかりは行ってみないと分からないんだろうな、とも。それでたまたま目に入ったのがインティファーダの映像だった。


『イラク戦争開戦』(2003年、バクダッド)アメリカ軍の攻撃によって負傷した子どもたちがバクダッド市内の病院で治療を受けていた

——まずそこに行ってみたい、という欲望から始まったと。
そうです。行ってみたい、見てみたい。せっかく行くなら写真も撮ろうと思い、カメラを始めて。しかも海外なんて行ったことないし、パスポートもない。これが2000年。昔から〝思いついたらすぐ実行〟の人間なんで、その日の昼に会社まで行って「辞める」と伝えたんです。

——ワオッ、猪突猛進!

そしたら「ちょっと待ってくれ」と。返品対応もあるし、あと半年いて欲しいと。それで続けることにしたんですけど、半年後にはちゃんとパレスチナ行きましたよ。入国審査に3時間。英語も話せない。なにも出来ないのに、〝行きたい〟が先行しちゃった。


『イラク戦争開戦』(2003年、バクダッド)アメリカ軍の攻撃で亡くなった方の遺体を運ぶイラク人たち

——現地フィクサーもいない状態で、単独入国ですか。

はい、今考えると笑えますよ。結局40日くらいいたのかな。後半にも差しかがると、だいぶ慣れてきて。でもパレスチナ地区にだけは絶対に入れない。それでウダウダしていたら、たまたまエルサレムの旧市街で写真家のQ・サカマキさんに出会った。それでQさんに「これからチェックポイントに行くところなんだけど……行く?」と言われたから「行く行く!」って。

その30分後、Qさんが撃たれたんです。

——えー、なにその急展開!

跳弾が左手に当たって、骨にヒビが入った。翌日、Qさんから「車で一緒に連れていってあげるからアシスタントしてくれ」と言われて。レンズ交換とフィルム交換をやることになった。そのおかげでノウハウというか、取材の手順を学びました。

そのあと宮崎に戻って。出来上がった写真は散々だったけれど、とにかくあの緊張感が忘れられない。まだ20代、とにかく刺激がたまらなかった。銃声だ、催涙ガスだっていう。それでまた働いて、お金がたまったらまた行こうと心に決めました。


『パレスチナ』(2002年、ガザ地区)インティファーダ(民衆蜂起)でイスラエル軍に射殺された男性の葬儀

地元で配送業に邁進していると、今度は9.11が起きて。あの日、Qさんから電話が入ったんです。彼はニューヨークに住んでいるんですけど「テレビ観てる? NHKつけてみ?」と言われて。つけたら、ツインタワーに飛行機が突っ込む瞬間だった。それを見ても僕はピンと来なかったんだけど、Qさんが「次はアフガニスタンがやられる。俺はすぐパキスタンに行くけど、もし来るなら、どこどこのホテルにいるから。じゃ!」って切られて。エサ振られたよ!って(笑)。で、また会社を辞めましたよね。

——また辞めちゃった(笑)。それでそれで?

なんとか東京でビザを取り、パキスタンのペシャーワルまで飛びました。Qさんとも合流して写真を撮った。帰国後、写真を見てくれと色んな出版社にお願いし、唯一引っかかったのが『週刊朝日』。当時はまだポジだったんですけど、セレクトすらしていないポジを全て持っていって(笑)。恥ずかしー! 当時は写真の見せ方も知らなかったんです。


『パレスチナ』(2002年、ガザ地区)イスラエル軍による度重なる攻撃で破壊された難民キャンプ

じゃあ最初から見てみようとなって。これいいじゃん、これもいいねとやっているうち、「文章も書ける?」と。考えてもみなかったけれど、「書けます!」と即答。「じゃあ1200字ね、巻頭やりたいから」と言われ、ポジを持っていかれた。

——いきなり巻頭は快挙ですね! 文はどうしたんですか?

落ち着いてみると、作文もろくすっぽ書けないばかりか、パソコンすら使ったことがなかった。それで1200字書けと。焦って、すぐさま居候先の友達に「パソコンの使い方教えて」と訊いた。ワードの使い方だけ教えてもらい、1晩で1200字を書き上げました。その掲載誌がキヨスクに並んだのが、ちょうど僕の30歳の誕生日。

——おー、完璧なストーリー。

何度も何度も、自分のクレジットを読み返したのを覚えていますね。自分の目で見たものが紙になって、世に出せるという快感。それを知りました。さすがに文章は別人が書いたみたいに書き直されてましたけど。


『Bang bang Bankok』(2010年、バンコク)前日まではタイらしくのんびりとしていたデモ隊とタイ国軍がこの日初めて衝突した

そんな調子で、写真の面白さを知った。そのあとはテレビの組み立て工場で働いたりしながら、またお金を貯めて。溜まったら海外。それを繰り返していました。すると或る時、当時『週刊朝日』のデスクが電話をくれた。「写真続けるの?」って。「続けます。今も取材行こうと思って金貯めてます」と答えたら「お前、写真すごく下手だからさ。ちゃんと勉強した方がいい。仕事やるから東京に出てきなよ」と誘ってくれた。その1ヵ月後、ようやく上京を果たしたんです。


『Bang bang Bankok』(2010年、バンコク)衝突は夜になって激しさを増し、この日の衝突だけで日本人を含む20数人が亡くなった

——『週刊朝日』がくれた仕事というのは?

今もあるのかな? 「ドン小西のファッションチェック」をずっと担当していた。その合間合間、海外に取材へ行って。雑誌社だから、フィルムはいくらでも使わせてくれる。それは心配しなくても良くなって。そうして海外を回るようになっていって、2004年にとうとうイラク入りするんです。

——いよいよイラク入りすると……。読者の皆様、お待たせしました。ここからが本番です……。郡山さん、ということはイラク入りもそれまでの海外活動となんら変わらない目的や行動のためだったと。

そうです。付け加えると、前年にもイラクには入っていて。世話になったイラク人家族がいた。彼らが、引っ越したという連絡をくれていたんです。そろそろ行こうかなと思っていたし、劣化ウランなんかも見てみたかった。それで行くことにしたのが2004年。

——この件については色々あったと思うので、話せる範囲で構いません。「イラク人質事件」では郡山さんのほか、日本人2人が拉致されたと思います。彼らとは、どこで出会ったんですか?

現地に着いて、いつもの定宿に行ってみたんです。すると、例の2人がたまたまいて。当時のアンマン、バクダッドは物価がとても高かった。だから僕は移動の車を一緒にシェアしてくれる人を探していて。そしたら2人が「一緒に行く」と手を挙げた。もちろん初対面ですよ。あの当時、移動をシェアするやり方は全く珍しくなかった。


『Egyptian Revolution』(2011年、カイロ)昼間は汗ばむ陽気だが、朝夕はかなり冷え込む

夕方に宿を出て、朝方には国境を越えて。そしたら途中で、ふと車がガソリンスタンドに寄ったんです。「あれ、こんなところに寄るんだ?」と思った。運転手がスタンドで、ガソリンを入れ出した時、パッと横を見たら、マスクをしてRPGを持った連中が車で走ってきて。とっ捕まったんです。僕は他の2人とは別にされ、連れていかれた。独りになった状態で、30分くらい車で移動されて。

——えっ、怖い! 顔に袋とか被されて?

そうそう。左右をむっさいのに挟まれながら。

——連中はなんて言ってました?

それが全然分からないんです。彼らは英語が全く喋れない。とにかく(手招きしながら)来い来いと。で、連れて行かれた先には何十人かがいたんですけど、彼らがケンカしているんですね。コイツはなんなんだ?みたいな感じで。なかには止める人もいて。最終的には銃を突きつけられた。なに言ってるか分からないから、銃でどつかれる訳ですよ、胸を。

——えー、やだやだ! AK-47とかで?

そうそう、AK-47。でも、なぜか僕は開き直っちゃって。日本語で「撃てよコラ!」って叫んだら、向こうが黙っちゃって。それでまた車に乗せられ、2人のところに戻されたんです。あれ、なんだったのかなって。いまも思いますね。


『Egyptian Revolution』(2011年、カイロ)タハリール広場には衝突で破壊された車がそのまま放置されていた

——万が一の覚悟はしてました?

ああいうところを行く訳だから、そういうリスクは覚悟の上でした。それもあって、開き直っちゃったのかもしれないですけど。もともと気が短いんで、多人数でそういうことをするっていうのにイラッとしたんだと思います。

——それでそれで?

英語が話せる人のところに連れられ、メシをご馳走になり。で、ビデオを撮られる……

——それってもしかして犯行声明的な?

そうです。……順番が違うかな。どっちが先なんだ? メシの前にビデオ撮影をしたのか? いや、後だっけ……その辺の記憶がすごく曖昧で。というのも、色んな場所に移された。行く先々で相手が変わったんです。だから時間軸を正確に覚えられていなくて。これは3人で話しても話が合わない。3人が間違ってる可能性もある。

おそらくはこうです。まず普通の家に連れて行かれて。そこで話をし、誤解が解けたなと思ったんだけど、結局またどこかに連れていかれた。その翌日かな? コンクリート工場に連れていかれて。


『Egyptian Revolution』(2011年、カイロ)反ムバラク政権の集まるタハリール広場近くのゲストハウス

——おー、コンクリ工場はヤバイ!

そこでメシを食べたんです、みんなで。

——ああ、ゴハンね……良かった。

イラク人も一緒に。メシ食ったから大丈夫だなと思って。そしたら、ビデオ撮影が突然始まった。彼らとしては、怖がってもらわないと困るから。ワンアクション置いたんだと思うんです。後で謝ってましたよ。「怖かったでしょ、ゴメンね」って。

——ホント、そういう人たちで良かったですね。

あの頃はまだ色んな人たちが混在していて。僕たちを捕まえたのも、普通のイラク人たちだった。話を聞いたら、学校の先生だったり、建設会社で働いている人だったりで。要は家族が殺されていて、米軍は憎い。でもお前らに恨みはない。ちょうど日本が自衛隊を派遣する頃だったから、それは辞めて欲しいと。そういう意味で撮影したビデオだったらしくて。これは後で聞いた話ですけどね。解放される前日なんて、みんなで寝っ転がってジャッキー・チェンの映画を観てたんですから。


『Egyptian Revolution』(2011年、カイロ)朝方のタハリール広場

——マジッスか。それを写真で見たかった!

ハハハ! ジャッキー・チェンの映画、観てましたね。タイトルはなんだったっけ? とにかくその時は英語が話せる人たちだったから、意思の疎通もけっこうできた。ようやく安全なところまで来て、解放されました。

とにかく流れや目的はよく分からない。ただ、僕らを戦闘に巻き込まれないように、としてくれた感はすごくある。どんどん遠くにつれていかれたと思いますから。ジャッキーチェンの映画を観たところには2泊くらいしたんですけど、その前に3泊した場所なんて本当になにもないところだった。だからタイミングを見て僕たちを安全な方に、安全な方に動かしていたみたいです。

——一体どういう組織だったんですかね?

寄せ集めだったみたいですね。彼らが自分たちのことを言うとき、「レジスタンス」と呼んでいた。当時けっこういたんです。その他にもヨルダンとかから来ているような、米軍やっつけてやるぞ!っていうムジャヒディンたちも沢山いましたけど。たまたま僕らはレジスタンスに捕まった。それが良かった。


『Egyptian Revolution』(2011年、カイロ)ムバラク政権支持者による礼拝

——そういう恐ろしい体験を経て、人生観は変わりましたか?

命の危険を感じたことは、他でも何度もあって。パレスチナもけっこう通ってるので、怖い思いは何度もしました。その時ばかりは「なんでこんなところに来ちゃったんだろう?」と後悔はする。でも不思議なもので、また行きたくなるんですね。イラクは撮りたかったし、前の年に行っていて、いい印象があった。人もいいし、友達も出来ていたし。メールが一番のきっかけだったんですよ。「引っ越したから遊びにおいでよ」って。遠いぞと思いながらも行ったんですけど。

人生観か……ただ、写真を撮り続けるしかないな、とは思いました。要は帰国するとバッシングだらけ。僕の話なんて誰も聞いてくれなかった。テレビに出演すれば、生放送で騙される。打ち合わせと全く違うとか。結局、先入観で自分たちの筋道を作り上げているから、僕がなにか言ったところで変わらない。だったら行動で示そうと思って。ますます写真を撮ろうと思うようになった。


『戦争の後に来たもの』(2006年、カンボジア プノンペン)ゴミ捨て場で有機物を拾う人々

——そのあと動き出したのは?

4月に帰国して、次に出たのが6月かな? タイのHIV孤児施設を前に撮ってたんで、そこの子どもたちがテレビ観ながら泣いてたって、施設の人から聞いていた。だから顔を見せに行こうと思って。

その後、アフガニスタンに行った。イラクの時は正直、銃を向けられても怖いと思わなかった。だけど数ヵ月経って落ち着いてみると、色んな可能性があったなと考えちゃって。あのまま死んでいたかもと思うと、途端に怖くなった。

そんな気持ちのままじゃ、もう二度と紛争地には行けなくなる。じゃあひとつ、自分を試してみよう。アフガニスタンに行って写真が撮れなければ、写真を辞めようと思って。


『South』(2008年、タイ深南部ヤラー県)夕方、夕飯の買い出しに賑わう市場でムスリム男性が射殺された。報復を恐れるため、目撃者が名乗り出ることは少ない

——また極端な。

でもま、すんなり撮れたんですけどね(笑)。それで3週間くらい撮ってきて、また自信を取り戻して。銃を観ても、まだ写真が撮れると。あそこで無理してでもアフガニスタンに行かなければ、写真ももう続けられなかったのかもしれない。それと同時に、長く追いかけられるものを探していた。紛争地って、どうしてもスポットニュース的なもの。或る日思ったんです。僕らは自腹で行って、週刊誌で使われたら終わりでしょう? 流れていく消費的なものでしかない。もっと残るものを撮りたい。そう思うようになっていった。

……イラクのこととか、久しぶりに思い出しました。特に事件の9日間は曖昧で。昼も夜も分からない。時計もないから時間が分からない。


『South』(2008年、タイ深南部ヤラー県)タイ国軍によるテロ組織壊滅オペレーション。雨期特有の土砂降りで命令が聞こえにくく、怒鳴るように命令するコマンダー

覚えているのは、相手側のイラク人がいつも訊いてくるんですよ。なにが欲しい?って。僕はヘビースモーカーなので、「タバコ持ってきて!」と。すると各銘柄を計10箱くらい買ってきて。ごそっとね。それから、あの辺では鶏肉が高いのに、それをメシに出してくれたりとか。あとコーヒーがすごく飲みたくて。でも現地にはない。それも頼むと、頭を抱えながら「コーヒーハ…ナイ……」って(笑)。おじいちゃんだったんですけど、すごくいい人でしたね。

——結局、彼らの目的ってなんだったんでしょう?

僕が思うに、若いのが勝手に捕まえてしまったんですよ。それで、どう扱うかで困ってしまった。その流れのなかでビデオ撮影が始まり、そのあと彼らも反省して、という感じで。だから基本的に扱いはすごく良かったんです。


『South』(2013年、タイ深南部ヤラー県)朝、射殺された男性の遺体が病院に運ばれてきた。射殺などは早朝と夜に起こるケースが大半だ

——帰国後、日本の対応はどうでした?

すごかったですよ。そもそも一緒に拉致された他2人とは9日間も一緒にいる予定はなかった。ただ車をシェアするだけのつもりだったのに、ジャーナリストが素人と動くのはどうなのか?とかよく叩かれましたね。

現地には公安も来ていましたよ。解放されたその日から、公安が3人を尋問し始めた。僕は公安とかあんまり信用してないんで、適当に答えていた。でも全部決めてかかってきましたからね。こうだよね、こうだよねって。いや、そうじゃないよ、違うよ、なに言ってんだよって。そしたら30分程度で終わって。それに対して、ちゃんと対応していた他の2人は何時間も尋問されてましたね。

——帰国後しばらくはマークされたりとか?

された、された。公安手帳に僕の名前が載ってたらしいですからね。あと元自衛官だったから「反戦自衛官」と言われたりとか。


『South』(2013年、タイ深南部ヤラー県)深南部の主な地域、ヤラー、パタニー、ナラーティーワートを結ぶ道路には、警察による多くのチェックポイントがある

——郡山さん、自衛官だったんですか?

それも、元々なりたくてなった訳じゃなくて。お袋との約束で公務員になれと言われていて。その当時、僕になれる公務員が自衛官しかなかったというだけの話なんです。

——どれくらいの期間を?

陸上自衛隊に6年。元は競輪選手になりたくて。うちは片親なんですけど、高校を卒業した時にお願いをした。バイトはするから家に1年いさせて欲しい。それで競輪選手にトライして、ダメなら言うこと聞くからと。結局、選手にはなれなかったから自衛隊に入った。そこに思想があるかと言ったら、ありませんから。なのに、イラクの時にはすごく言われて。自衛隊だったから、そういうのを撮るんですかって。全く関係ないですよ。

話を戻すと、イラクに行く前はいくらでもバイトができた。でもあの1件で顔が割れちゃったから、バイトも出来なくなっちゃって。そうすると金がなくなりますよね。


『South』(2011年、タイ深南部ヤラー県)ムスリムが多い深南部では屠殺場も豚は仏教徒、牛はイスラム教徒で作業が分担されていた

——そりゃ大変だ。どう対処したんですか?

上野彦馬写真賞というコンペがあって。グランプリの賞金が100万円だった。2006年に応募したら、グランプリ獲っちゃった(笑)。その100万円で食い繋ぎましたね。そしたらフライデーから声がかかって、週刊誌の世界へ。その後は、殺人事件の送検から芸能人の張り込みまでやるようになって。お金は安定するようになった。

その合間は海外取材に出る。だから家にいないじゃないですか。或る時、妻に訊かれたんです。「写真と家庭、どっちが大切なの?」って。それに対し、期待されていた答えを答えてあげられなかった。その結果、今は独りで生きています。

——写真に全てを捧げた13年だったんですね。最後に「孤独死」についてもう少し。死臭って……どういうニオイなんですか?

よく訊かれるんですけど、表現するのは難しいです。誰かは「くさやに酢をかけたニオイ」と言ってましたね。僕が思うに「コーヒー豆を濃く煎ったニオイ」。若干、芳ばしい。それでも吐き気は催す臭さ。あと、お酒が好きな方の死臭は甘い。アルコールのニオイなんですよ。それは入った瞬間に分かります。で、キッチンを見るとだいたい酒瓶が並んでいる。


『Apartments in Tokyo』より

——死後どれくらい経っているか、なんとなく分かるもんなんでしょうか?

夏だと、ウジのサナギの数を数えれば大体予想はつきますね。あと体液の出方とか。

——ウジってどこから沸いてくるんでしょう?

あれね、どうも換気扇からみたいです。開いているじゃないですか。1匹でも入ってくれば、卵を植え付けて、それが羽化して増えて……という感じで食われていく。或る現場では、フローリングにウジがウニウニしていたから、どこから沸いてきたんだと思ったら、フローリングとカベの隙間にズラーッて。あと布団をめくるのは怖いですね。絶対にウジがいるよねと。ドキドキしながら、エイッ!とめくると、ビッチリいたりだとか。

——孤独死の写真シリーズ『Apartments in Tokyo』では、もちろん刺激の強い写真もありますけど、そうじゃない側面を捉えることを大事にされていると思います。人が突然、孤独に死ぬ—。これは圧倒的なインパクト。ニオイは凄そうだし、呪われそうだし、気持ちが悪い……。現場を知らなければ知らないほど、そういった先入観だけが一人歩きしがちです。だからこそ孤独死と向き合ってきた郡山さんに訊きたい。そこに、なにを見たんでしょうか?

ひとつ言えるのは「孤独死を取り巻く環境」ですね。孤独死とはいうけれど、見つからない理由は必ずある。実際、遺族が酷いケースは少なくなくて。社長曰く、見積もりの電話で「うちの誰々が死んじゃってさー」くらいのノリで話してくる人は少なからずいるみたいです。

遺族が僕たち清掃員に「孤独死したのは私のせいじゃない」と言ってくることもある。訊いてもいないのに、必死で言ってくる。延々とですよ。僕らが言われてもしょうがないじゃないですか。あれって多分、故人に対して言ってるんですよね。


『Apartments in Tokyo』より

或る現場では、玄関に男性が3人待ち構えていて。「清掃で来られたんですよね?」って訊いてきた。「そうです」と答えると「僕、(亡くなられた人の)友達なんです。遺品を頂きたいんで」って。亡くなられた方がフィギュアマニアだったみたいで。玄関先に体液が広がっている現場だったんですけど、それをモノともせず勢いよく入っていって。どこになにがあるかを知ってるんですね。だから迷わない。もう物色ですよ。友達という名の泥棒というか。

それから第1発見者はといったら、遺族や近所の人を思い浮かべがち。でも実は圧倒的に少なくて。じゃあ誰が見つけるかといったら、新聞配達や牛乳配達、それから大家さん。隣近所の人たちはなんとなく分かっても、自分が巻き込まれるのを恐れて名乗り出ないケースが多いみたいです。


『Apartments in Tokyo』より

孤独死を撮っていると、知り合いから縁起が悪いとか、気持ち悪いとか言われますけど、そういうものじゃないと思うんです。僕も今じゃ独りで暮らしているから、いつか孤独死する可能性はある。君もそうでしょって。

孤独死は、新たな死のカテゴリー。これから数も増えていくと思う。それよりも、なにが問題なのかと言ったら、腐るまで放置されて見つかることに問題がある。それってやっぱり、孤独死を取り巻く環境に行き着くってことなんじゃないかなって。僕はそう思うんです。

郡山総一郎は今年で撮影7年目を数えるタイ深南部のフォトストーリーによる個展を開催予定。浅草橋・Gallery Drainにて2014年6月28日から。

郡山総一郎 公式ウェブサイト
http://soichirokoriyama1.sites.livebooks.com

Gallery Drain
http://gallerydrain.com

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被災地福島の子どもたち、自らの写真と文字で現地復興を伝える。

Text by Tomo Kosuga
[初出掲載:VICE.com日本版 2014年3月]

「キッズ フォトジャーナル」(以下、KPJ)は2011年6月の設立以来、被災した東北の子どもたちが故郷復興の様子や生活の変化を写真と文章で記録し、世界に発信すると共にその記録を次世代、そして未来の日本に繋げるプロジェクト。

「この写真を見て、被災地の現状を知ってもらいたい」「伝えなきゃいけないという気持ちがある」。東日本大震災以後、継続して取材活動を続けるキッズの3年間が訴えるものとは—。映像では詳しく伝えられなかった写真の一部をここに掲載する。子どもらしい言葉の数々に潜む、えぐるような鋭い表現力に気づかされることは少なくないはずだ。