家族

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3月30日、ゴールデンウィークに差し掛かった日、実家で家族4人、家族会議をした。今後のこと、実家のこと、店のこと。両親の老後のこと。結論のひとつとしては、私が実家に保管していた物品をなんとかしてくれとのことであった。
よし、では今からやろうと声をかけた。
かつては私の部屋であり、現在は父の書斎となった部屋の押し入れから段ボールを引きずり出しては、残すものと捨てるものを振り分けた。夕方5時から始め、途中夕飯と会話を挟みながら、1人、1人と脱落者をよそに、しまいには夜の11時まで続けた。その甲斐あって、残すものは段ボール5つほどにまとまった。私の青春、20年間は段ボール5つ程度。もう少し残したかったものだが、現実的にスペースがないのだから仕方がない。それにしても、昔なら力仕事は任せろといわんばかりの父は、いつの間にか作業の途中で居間に寝転び、寝入ってしまっていた。気づかぬうちに父が老いたことを知った。
私は中学1年から写真を始めたので、実家を整理すれば自然と、写真の整理にもなる。山ほどのプリントを1枚1枚、これは要る、これは要らないと振り分けていった。私にとって写真の全盛期は大学生時代。デジカメのデータを掘り起こせば、毎日撮影したデータが出てくる。フィルムも似たようなものだ。なにせ首からコンパクトカメラを5台は吊り下げていたほどであったから。
その時代、つまり今から10年以上は遡った父と母の写真も出てきた。私にとっての彼らはその時代のイメージが強い。反発と愛が毎日、交互に繰り返されていた。喧嘩をよくした記憶があるが、その割には気持ちのいい写真ばかりが残っていた。なにより写真のなかの2人は若かった。生き生きとして見えるし、顔も軽やかだ。10年という歳月が人に与えるものとして、目には見えないものを感じた。その写真を持ち帰り、家で1人、眺めていた。そして寝床で、父と母を連れて昔の家を回ろうと決めた。
今朝7時半に目覚め、実家を目指した。両親はちょうどこの日、簡単な仕事を片付けたらそれで1日をおしまいにしようとしていた。なんとか説得をし、9時に集合、半に出発した。
私の記憶では、我が家はこれまで2回ほど引っ越している。しかしどれも近距離の範囲だ。戸山ハイツから早稲田に移り、さらに早稲田内を移動している。なぜ近所を転々としたのか? その理由には、店の存在が挙げられる。父が経営する薬局から遠くならないことが実家の最優先事項だった。つまり、かつての実家らを巡るうえではどれも徒歩圏内に位置するため、今回の撮影においては好都合な条件なのであった。
なるべくピントは両親に合わさず、つまりぼかし、背景に合わせる。ここで重要なのは彼らではなく、彼らがかつての場所にいることだ。私たちはかつての住処をいま、この時代に再び訪れている。つまり時の観点では、いまでなく、かつてである。つまりここで彼らの表情や皺、髪の毛はさほど重要でない。私は正直、彼らが老いたことと向き合いたくなかった。しかしピントをぼかせば、映り込んだ顔はいくぶん見覚えあるものに感じられた。
この小さな旅において、最終地点は戸山ハイツの玄関だった。私が物心つく頃から住み、高校3年まで住んだ家。質素な暮らしだったが、すべてが詰まった家。大好きな家。私はことある毎に訪れている場所だが、父と母にとっては15年ぶりだった。戸惑う彼らに思考の余地を与えないまま、とうとう辿り着いてしまった。
かつての我が家は2階に位置するのだが、階段から上がってすぐを右に曲がると、ずらっと奥まで長く続く廊下に出る。不思議なことに、廊下が目に入った瞬間、毎回のようにフラッシュバックが起こる。15年の歳月がまるで15秒だったのかのように。あの日はまるで今日であるかのように。胸にこみ上がるものを抑えながら、父と母をかつての玄関前で写した。低速シャッターを下ろしているあいだ、彼らには首をよこに振ってもらった。やはりここでも、彼らの現在の顔はどうでも良かった。ここに存在し、あの日の記憶に私たちが還るため、あるいは普遍的な父と母の肖像を捕らえるためには、具体的な顔というものはむしろ邪魔だった。
何度、扉をノックしようか悩んだことだろう。扉の先には、あの日の思い出がたくさん詰まっている。でも叩くのはやめた。写真を振り返れば、いくらでも還れるのだから。じいちゃんもいる。みんな元気な姿で写真のなかで生きている。写真のなかに写り込んでしまった環境は私にとって絶対に崩れない幸せの塊であり、すべてが腑に落ちる。
初めはぎこちなく共に並んで写っていた2人だったが、撮影も最後のほうになると距離が近づき、いつの間にか寄り添っていた。寝不足の腫れた顔で急きょ挑んだリハビリ撮影だったが、わずかに取り戻せたものがあった。

祖父との記憶

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物心つく頃から、店の裏口が秘密基地だった。

祖父と父が経営する自営の薬局では、納品された薬の段ボールが山のように出る。そのひとつに身を潜めながら、妄想に耽る幼少期を過ごした。両親は共働きだったが、兄と私を鍵っ子にさせたくない思いから、放課後から店を閉めるまでは店の裏手で遊ばせるようにさせていた。
遊び相手を興じるのはいつも祖父だった。店の経営者として切り盛りしていた祖父は店の調剤室の一角に木製の机を置き、いつもそこにいた。学校から帰ると、真っ先に向かうのは祖父の下。調剤室の白い扉を開くときの音まで鮮明に覚えている。
祖父は様々な遊びを教えてくれた。不要になった紙を横長に裁断して作った祖父お手製のメモ帳になにやら川と橋を描き込んだかと思えば、鉛筆を渡し、そのお尻を指で押さえ、先端を紙の上に乗せ、うまく橋を渡れるように鉛筆を弾いて、その軌跡で橋を渡ってみなさいといったように。「やあ、ともくん。今日の学校はどうだったかい?」——祖父はいつも笑顔で迎えてくれた。
高校の頃、祖父が脳梗塞で倒れた。女子医大に運ばれ、緊急手術を受けた。昏睡状態を経て意識を取り戻した。これが引き金となって、身体の半分がマヒしてしまった。しかし持ち前の前向きな性格からか、次第に体調を取り戻し、マヒしていた半分も動かせるまでに回復していった。この出来事の前後に、私は祖父母の家でアルバムを見返すようになった。そこには家族や旅行、スナップが広がっていた。実によい写真を撮る人物だと知った。
祖父、小菅正夫は大正12年8月5日生まれ。
昭和19年9月、神奈川県溝の口東部62部隊に入隊。このとき、21歳。昭和20年、8月15日終戦。船でシベリア・ウラジオストックを経てシベリア鉄道でウスリースクに入り、ここで強制労働をさせられた。昭和21年12月、シベリアからの引き揚げ船「栄豊」で舞鶴に入港。昭和22年1月22日、自宅に到着。
昭和24年、26歳で株式会社コスガに入社。主にアメリカ人来客者を相手に営業に務める。昭和56年、コスガ薬局を開設。以後、店主を務めた。第1章の前半は曾祖父のシンガポール遠征から始まり、祖父の籐家具販売員時代である。7ページ目の左ページに写る外国人の紳士は当時のお客で、よく観ると籐でできた椅子に座っているのが分かる。また右ページのビルは小菅ビルディングで、屋上に取り付けられた「小菅の籐家具」という看板が確認できる。株式会社コスガの創業は1862年。2008年、業績悪化により倒産。翌年、職人有志数名を集めて新会社「コスガの家具」として再スタートを切っている。
昭和36年、38歳で同社を退社、西大久保にコスガ化粧品店を開店。その店舗が10ページ目である。始めこそ化粧品を取り扱う店として幕を切るが、父が薬剤師免許を所得したのち、1981年、コスガ薬局を開設。第2章は、祖父と父、そして祖母、母というコスガ一家で切り盛りする時代である。13ページ目は祖母と戯れる幼き頃の兄だが、私たちはこうして店を根城にしながら育っていった。16ページ目、店の調剤室で父が調剤する後ろ姿をとらえた1枚には、父に対する祖父の期待と祝福のまなざしが感じられる。19ページ目、今度は父の視線からとらえた祖父の後ろ姿からは、家長として店を守らんとする姿勢が垣間見られる。
祖父は日記が好きだった。最後となった病室でも、小さなメモ帳を肌身離さず持ち歩き、日々の記録をした。祖父が元気だった頃は、年の暮れに差し迫ると日記帳をプレゼントとして買って持っていくようにしていた。祖父の家から見つかった日記帳を開くと、祖父の誕生日の欄に、私から祖父へのメッセージが書かれていた。どうやらその日記帳を買ったとき、サプライズで誕生日の欄にひっそりメッセージを書いていたようだった。それに対し、祖父は返事を書き込んでいた。そんなところにも、祖父との対話があったのだと改めて知った。
兄がうまれたのが1980年、私が1983年。1984年から1986年に書かれた日記帳では、私たち兄弟の独擅場であった。日に日に成長する2人との出来事や発見が生き生きと綴られる。すると不思議なことに、同時期に写された祖父との写真が見つかるのだ。第3章ではどんな気持ちで祖父が家族と向き合ったのか、それを日記と写真から振り返った。
私の知る限り、祖父は温厚な性格だった。いつもニコニコしていたし、前向きで明るい人だった。しかし日記の筆跡を辿るうち、祖父は意識的にそう心がけていたのだと知った。家長として、経営者として、祖父は努めていた。おそらく祖父には夢があった。そのために自分はなにをしなければいけないのか、それを見つめていたように思う。2011年、祖父はこう記している(53ページ目)。

私は今迄の目標として薬局を持つ事に総てをかけた。自分も今、87才で益々健康で日々楽しんで居る。日々の感謝を持って益々元気である事と、照子と共に過ごす事である。 感謝

2012年7月30日 19時51分。祖父は88歳で他界した。ベッドには、いくつかのメモ帳が収められたプラスチック製のバインダーが遺されていた。中に1枚の名刺が収められていた。時間が経ってボロボロになったそれはコスガ薬局での祖父の名刺であった。ウラには「くすり」とマジックペンで書かれていた。最期の最期まで、祖父には薬局のことが気がかりだったに違いない。この日、父は祖父の死に際に立ち会えなかった。いつも通り、店を開いていたので、ようやく駆けつけた数分前に祖父は逝ってしまった。しかしこの名刺を観る限り、祖父はそれを咎めたりはしないだろう。今日もコスガ薬局が無事に開店し、いつものお客さんが訪れ、対話をする父の姿を祖父は想像しながら逝ったのではないだろうか。そして、ここにまとめた祖父の人生を走馬燈のように駆け巡りながら。
2105年12月19日。久しぶりに祖母の下を訪れた。何気なしに開いた引き出しから、ひとつのポジマウントを見つかった。清々しい冬の昼下がり、太陽に照らして観たら、そこに写っていたのは幼き頃の私と祖父の姿だった。祖父は私を抱きかかえていた。私は祖父だけを見つめ、微笑んでいた。やあじいちゃん、また会えたね。この発見が私を突き動かし、この日、実家から持ち帰った様々なアルバムと祖父の遺品で、一冊の写真集を編むことを私は決めた。
7章はこのとき見つかった絵本である。祖父は旅の絵本をさもアルバムに仕立てるかのように、かつて私が撮影した祖父の写真を貼っていた。ページをめくるにつれ、写真は減っていき、しまいには絵本だけになっていた。絵本の最後は、大海を舟で渡る男性と、それを岸から見つめる馬の姿だった。私と祖父の写真集『祖父との記憶』はそこで閉じることにした。