祖父との対話

015年12月19日(土)

祖父の遺品のひとつである補聴器をつけてみた
隣りの高層ビルを夢中で説明する祖母を横目に、祖父の補聴器をつけてみた

「ともくんさ、つぎ来るとき、しめ縄交換してくれない?」
先日、祖母の下を訪れた際、そう頼まれていた。年内には交換したいということだったので、週末らしい用事のひとつとして、祖母宅に立ち寄ることにした。あらかじめ電話で確認すると、新しいしめ縄はちょうど今朝、買ってきたところだという。
10年近く前まで、神棚は奥の部屋の天井ちかくに設置されており、高齢化の進む祖父(当時は祖父の担当だった)が神棚の水替えのため、毎朝丸イスによじのぼるのは危険だという判断で神棚を降ろし、そのついでに作りを簡略化してしまったのを覚えている。
いま思えば、もう少しやり方があったなあと、毎度見るたびに反省するほどいまでは粗末なありさまではあるが、とにもかくにも、今年もしめ縄を交換することができ、役目をまっとうして満足した。
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神棚は一部を残して簡略化してしまいこのありさまだが、とにかくしめ縄は交換できた

ついでだからと、祖父の遺品をすこし見ることにした。
カラスのようにがらくた集めが趣味だった祖父であるから、残されたものは少なくない。本来なら、祖父が亡くなった2012年にその多くを処分する予定だったが、ぼくが写真に収めたいからと引き留め、その発言の責任も負うことなく、それから3年が経っていた。
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これも良い機会と思い、祖父の棚の引き出しを開けた。
独特な祖父の筆跡と共に、期待通りのがらくたが姿を現わした。がらくたなんて言ったら怒られてしまうかもしれないが、がらくたはがらくただ。厄介なことに、がらくたを集める癖は、確実にぼくにも引き継がれている。 それから、父にも、兄にも。
がらくたの山を、この日祖母が眺めていたチラシの上にひとつひとつ並べ、撮ることにした。
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世界各国数多のコイン、用途不明の光り物、壊れているけれどなんだかかっこいい昔のセルフシャッターレリーズ、ハーモニカ、無意味にいくつもあるトランプ、キーホルダー。
ううん、いいねえ。
撮影しながらつい唸ってしまうほど、良いがらくたたち。ぼくの〝無意味なものにも意味を見いだしてしまう審美眼〟は、祖父から引き継いだものなのだとついに知った。もっとも、骨董に手を出すよりはマシである。
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引き出しのなかを次々に洗っていくと、大ぶりの箱に手がのびた。
あけて真っ先に目に入ったのが、5枚のマウントポジ。おもむろに手にとり、空にむけて眺めた。
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5枚のうち2枚は、ぼくと兄の写真だった。
二人とも特徴的なヘアスタイルをしているので、当時の記憶も容易に辿ることができる。これは兄が高一、ぼくが中一のときのもの。3歳離れた兄とは中学こそ同じだったが、兄が卒業するタイミングでぼくが入学した。
二枚のうち、上の写真では二人の背後に兜が映り込んでいることから、端午の節句の時期のものだと分かり、下の写真では仰々しい姿勢と、当時暮らしていた都営住宅33号棟のすぐ下で撮っていることから、家族恒例の記念撮影だと分かり、つまり二人の入学式かなにかの日だろう。
だいたい祖父の持ち物は知っているつもりでいた。だけど祖父がこんな写真をしまっていたとは、今日まで知らなかった。
それだけじゃなかった。
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発泡スチロールの箱にしまわれていたもう一枚は、それだけボールペンでマウントにメモがしてある。眼鏡マークの下に「70才」、そしてその右横に「智和 10才」—。
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やあ、じいちゃん、こんにちは。また会えたね。
コスガ薬局の調剤室奥にあった祖父の仕事机は、幼いころのぼくの遊び場でもあった。姿勢正しく机に向かう祖父だが、ぼくの登場によって一気に緩み、手のひらを広げて待ちかまえるのだ。そして鉛筆と紙切れひとつで遊び方を教えてくれる。まるで魔法使いのようで、膝のうえに乗りながら夢中になって遊んだっけ。
この日、祖父との記憶がよみがえった。
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早朝5時、我が家のベランダから富士山を望む

ここ最近はすっかり自分のルーツ探しに夢中だ。
しかし、これはなにも今に始まったことではなく、ぼくの場合、小学生のころからそうだった。なぜ自分が存在するのか、不思議でたまらなかったのだ。いまなにかを考えるこの「自分」が果たして何者なのかが分からない。自分で自分がだれなのか分からない。
こういうことも考えたことがある。家族のなかでも、床に就く時間はまちまちだ。寝ている時間は自覚がない。それはつまり、寝ついたら最後、意識はすぐ明日へ行く。これを当時のぼくはこう考えた。となりで寝ている兄はもう寝ついている。すると、もう兄は明日に行ってしまったんじゃないか。それを追うように、ぼくが寝つけたとしても、明日会う兄はまったくの別人なんじゃないか……と。
そういうマインドに入ったときは決まって、視界がぐらぐらとし始め(それは実際に歪曲していた)、焦りと混乱で冷や汗をかくのだった。
昭和37年、父の幼少時代、一家での記念写真
昭和37年、父の幼少時代、一家での記念写真。家族を全身で包む祖父の姿

昭和59年7月11日。智和10ヵ月、じいちゃん61才、秀和3才
昭和59年7月11日。智和 10ヵ月、おじいちゃん61才、秀和3才

いま振り返れば、ぼくはなんらかの疾患を抱えていたのかもしれない。
しかし医者に病名をつけられたからといって、たちまち異常者になるわけでもない。そもそも完璧な人間など、一人とていないのだから。欠けているところが個性とも言える、かもしれない、し。
もっと辿れば、本来はぼくの兄のまえにもう一人生まれていたのだ。
残念ながら、その子は生きることができなかった。父と母はもともと二人の子を育てるつもりだったから、もしその子が元気に育っていたら、ぼくはこの世に存在しなかったかもしれない、と聞いたことがある。
命とは、そんなものかもしれない。命のバトンを受け取ったぼくが偶然生まれ、そして今日まで健康に生きられている。自分の歴史を紐解けば紐解くほど、自分ひとりではないことに気づくことができ、一体自分とはだれなのか、それがようやく少しは分かってきたような気がする。
コスガ薬局の前身、コスガ化粧品店の当時の写真を父が見せてくれた
コスガ薬局の前身、コスガ化粧品店の当時の写真を父が見せてくれた

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祖母と叔父。美しい一枚だ

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わんぱく坊主だった父の幼少時代

赤ん坊の叔父と曾祖父、小菅重蔵
曾祖父、小菅重蔵が赤ん坊の叔父を抱きかかえる

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祖父とぼくの幼いころ。セルフタイマーで祖父が撮影

私の記憶

2015年12月16日(水)
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この10年間、よく夢に見る景色がある。
1階には2台のエレベーター。ぼくはそのどちらかに乗り込み、2階のボタンを押す。無事に2階で降りられることもあるが、そのまま止まらず、上まで昇っていってしまうことも。無事、2階に降りられたときは、降りてすぐを右に曲がると、ずっとずっと奥まで長い廊下がつづく。
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廊下の先を進み、いくつかの部屋を過ぎると、左側の或るドアに手をかける。
そこまで来てようやく「ああ、ここからはもう引っ越したんだっけ」と思い出すが、都合良く「ここはこれからも使えるはず」と思い直し、秘密基地でも手に入れた子どもよろしく胸を躍らせる。
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東に向かって並んだふたつの部屋は一面が掃き出し窓になっており、日差しがよく入る。ガラガラガラという懐かしい響きと共に窓を開けば、眼前に広がる木々の隙間からカアカアと啼くカラス。
だれもいないその部屋に辿り着くことを目的とするか、あるいはうちに帰ってきたはずが、なぜかこの旧家にたどり着き、また別の道を歩かなければならないことに辟易する、といった夢。その場合、なぜかぼくの大切なものはこの部屋で、重なり合った段ボールに収納されながら置かれている。

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当時の家から出るとまず初めに目に入る景色は、いまも変わっていなかった

そこは「戸山ハイツ」と呼ばれる、古くは終戦後のGHQ統治時代に遡り、戦後初の大規模都営住宅として名を馳せた巨大団地の一角だ。そして夢のなかで辿り着いた部屋はほかでもない、ぼくがかつて親子で暮らした戸山ハイツ33号棟の215号室。1980年代初期から2000年近くまで暮らした。
正直、あまりいい思い出がないとばかり思っていたけれど、いざ離れてみて、この地がいかに大切なものであったかを噛み締めている。まさか、たびたび夢に見るほどとは。
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その後は両親の仕事の都合もあり、近所を転々としてきたが、この団地だけは格別の記憶となって脳裏に焼きついている。
いま振り返ると、あまり裕福な暮らしはしていなかった。どちらかといったら、その後の生活のほうがまだ暮らしは落ち着いていた。
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かつて家族と暮らした215号室

生活は苦しくても、家族4人でコタツを囲み、大笑いをしながら過ごした日々は特別だ。子ども時代の鬱々とした日々でさえ、あれがあっていまの自分があると思えば、こみ上がるものがある。ひとつひとつのエピソードが音声と共にありありと蘇る。
兄と2人で過ごした三畳の部屋、幼いころ、寝つけずにいると天井に差し込む外からの光。とうてい手の届かない高さにある欄間。
先日、ふいにぼくを包み込んでくれた祖父の面影を追っていくうち、今日、数年ぶりにこの地を訪れていた。本当の用事は別にあったのだけれど、12月らしくない朗らかな陽気に誘われ、父の電動自転車にまたがって。
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ここ戸山は新宿区のなかでも稀なほど、自然環境の整ったエリアだ。山手線内最高峰とされる箱根山を擁し、団地と団地のあいだを埋め尽くす木々のおかげで、四季折々の表情を持つ。
保育園、小学校、中学校、高校。このすべてを、ぼくはこの戸山で一貫して過ごしてきた。それこそ保育園を除いたら、残りすべての冠に〝戸山〟とつくほどだ。ようするに、18歳までのぼくを形成した大地はここにあった。
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自転車にまたがりながら過ぎ去る場面のひとつひとつは、ぼくにとってあまりにも大切なパーツなのに、こぐ速さで目まぐるしく先へ先へと進むわけだから、途中からの景色はまるで走馬燈。この数年、目を閉じては噛み締めていたかつての景色がまさにいま眼前に広がるという事実をなかなか受け入れられずにいた。
少し前までは、いつかまたこの地に戻ってきたいと思っていた。しかし今日、改めて訪れ、もう戻ってきてはいけない場所なのだと思い返す。なぜなら、ぼくの故郷はぼくのことを異物として捉え、容易には受け入れてはくれないように感じられたからだ。ぼくはもう、ここで育ったぼくではなくなっていた。
大親友が暮らした団地もいまは更地になっていた
大親友が暮らした団地もいまは更地になっていた

ぼくにとっての 居心地よさでいったら最上級の環境はきっと、ここなのだろう。しかしそれは手放したからこそ感じられるものであって、万が一そこに戻るとしても、それはいまじゃないはず。
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「今日あそぼうぜ」「なにして遊ぶんだよ」
ちょうど下校途中の小学生が通学路を占領していた。ランドセルに上着をはさみ、手には枝を持って。なんだ、20年前となにも変わらないじゃないか。
変わったこともたくさんあるだろうけれど、変わらないものもたくさん確かめられた。
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1時間ほど方々を駆け巡ったのち、隣接地域の都営住宅で暮らす祖母の下へ。
実家を訪れた際には祖母の顔も確かめることにしている。訪ねると、待ってましたとばかりの満面の笑顔。そしてついでだからと、祖父なきいま、昔のことを知る祖母から昔の話に耳を傾けた。すると、あっという間に陽は落ち始め、話半ばに慌てて飛び出す。
祖母の話については、またいずれそのうちに。
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2006年に撮った祖父

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2015年のいま、祖母を同じ場所で。すぐ隣りではガラス張りの超高層マンションが建設中

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2006年

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現在

祖父の記憶

寝つけない夜、ふとしたきっかけで祖父を思い出した。書棚から、自分が保管している祖父最期の2年間の日記を取り出し、ページをめくった。

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祖父の日記、2010年と2011年。祖父は2012年7月30日に亡くなった

祖父、小菅正夫は大正12年8月5日生まれ。
昭和19年9月、神奈川県溝の口東部62部隊に入隊。このとき、21歳。昭和20年、8月15日終戦。船でシベリア・ウラジオストックを経てシベリア鉄道でウスリースクに入り、ここで強制労働をさせられた。昭和21年12月、シベリアからの引き揚げ船「栄豊」で舞鶴に入港。昭和22年1月22日、自宅に到着。
昭和24年、26歳で株式会社コスガに入社。主にアメリカ人来客者を相手に営業に務める。昭和36年、38歳で同社を退社、西大久保にコスガ化粧品店を開店。昭和56年、コスガ薬局を開設。以後、店主を務めた。
几帳面でマイペースな性格の祖父は事細かに日記を記すばかりか、ときに英語と時事を交え、読む者を楽しませてくれる。
祖父がとりわけ重要視したのが自分史だった。僕もよく祖父の自分史まとめを手伝った
祖父がとりわけ重視したのが自分史だった。最期の最期まで忘れまいと何度も記していたようだ

最期の数年間は病院と自宅を行き来していたが、祖父が「商売道具」と呼ぶ筆記用具や世界地図、絵の具や色鉛筆、そしてなにより祖母がすぐそばにいる自宅はなによりの環境だったようで、家に戻ってきたときは目を輝かせていたのを覚えている。
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日記の隅々に生きる喜びが綴られていた

日記はもちろん、日常でも祖父は温厚で、いつも笑っていた。若いころの自分はその姿を見て、そのとき自分ができることをなんでもやっていたからかなと思っていた。しかしいま祖父の日記を振り返ってみる限り、祖父はあらゆる事物に感謝しているように感じられ、ただ楽観的な人だったわけではないことを知った。
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祖父の日記では「感謝」という言葉の登場回数が多い

祖父は最期までボケることがなかった。つまり、前は出来たことが日ごとに出来なくなっていく「老い」を確実に意識していたはずだ。それへの苛立ちもあったに違いないはずだが、祖父は少なくともぼくにそうした側面を見せることは一度もなかった。
最期の病院でも、祖父は「周りはみんな杖を使うんだけどね、ぼくは使わないんだ。自分の足で歩くんだよ。ほら、見てご覧」と自分の足で歩けることを誇りにしながら、いつだって前向きな心持ちでぼくに接してくれた。
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2011年4月24日の日記。これまでの人生を振り返り、満足気に大きく「感謝」と締めている

ようするに、祖父は経営者だったのだ。38歳で自らの店を構えて以降、30年近くにわたって一家6人を支えてきた大黒柱だった。祖父の日記に「私は今迄の目標として薬局を持つことに総てをかけた」と記されていることからもよく分かる。ぼくも去年から自営を始めてみて、ようやくほんの少しだけ、祖父の心持ちが分かってきたような気がする。
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感謝、感謝、感謝。振り返ると祖父は自分の気持ちを素直に伝える人だった。

昭和36年、希望を胸に店を構えた祖父は、新宿の地でどんな働きぶりを見せていたのだろう。奇しくも先日、現在はぼくの父が経営する店の大掃除から見つけ出されたチラシがその片鱗を教えてくれた。これはまだ父も働いていない時代、祖父と祖母がふたりで始めた当時の店のチラシである。
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当時のチラシからは、なんとかお客に楽しんでもらおうと、あの手この手で企画している祖父の姿が垣間見られた。幸運のトランプだなんて、なんとも楽しそうな響きじゃないか。祖父は自分のために生きていなかった。家族のため、お客のため、自分が構えた店のため、生きていた。だからあの笑顔、あの性格だったのだ。とことん明るいが、最期まで諦めない男だった。
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2011年の日記に挟まっていた祖父の名刺、そして祖母との写真

日記をふりかえっているうち、祖父が亡くなったときのことを思い出したくなっていた。亡くなったあの日、自分の記憶から祖父が消えていってしまうことを早くも恐れた自分は、その日起きたことをメモした。今回それを掘り起こしたので、自分の備忘録のためにもここに残したい。
2012年7月30日 19:39
日暮里駅の北口で父・母と合流
日暮里・上宮病院にタクシーで到着
7時45分 二階へ上がる
到着と同時に祖母が手招きしていた
5分の遅れで最期は看取れず
じいちゃん 目から涙が流れているようだった 最期に泣いたのか
体から体液が出たのかもしれない
手を触る まだ暖かい 足はもう冷たい
目は薄めで閉じない 口には出血の後が見られた
頭髪は剃られ、体は記憶よりも一回り二回り小さくなっていた
誰もが動揺していた 祖母、目を赤くしている
小さくなった体とは対称的に、大きく膨れ上がった両手
赤くあざになった箇所も
7時51分 まだ若い担当医師が到着
3つの確認箇所を診断で、死亡を確認
最期まで持っていたノートを譲り受ける
遺体を洗う作業へ
兄、合流 足を確認 かかとがいように大きい
ベッドでの生活が長かったせいか、筋肉は確認できない
赤ん坊のようにひざを曲げ、〈 〉状にしていた
空腹を満たすため、小さなケーキをふたつ食べる
兄と簡単に会話
一階へ下り、5人でまずは落ち着く
父が葬儀の手はずを取るため慌ただしい
新宿のおじちゃんから連絡など
田舎は、ばあちゃんだけでは来れない
おじちゃんに一任し、連絡を済ませる
看護師が入れ歯を見つける 口には綿を入れたあと
もう間に合わないと判断 棺桶に入れることで合意
看護師がじいちゃん最後のメモをくれた
亡くなる何日か前に書いたものとのこと
謎の絵と英語、そして「小菅」「小菅薬局」
体は手・足・頭など末端から冷え始めたが、
21:31現在、まだ心臓付近は暖かみを残している
半目の状態が仏様のようだ
一点を見つけるようで、全体を見つめている
なにかを見つめるようで、なにも見つめていない
目はいくら閉じてみても閉じることはなかった
21:57 死亡診断書が出る
小菅正夫 老衰にて永眠 享年88
反復性誤嚥性肺炎
廃用症候群
後日談 父と兄の話
昨日、目は開いて覚醒していた
手を動かして、話をすれば握る感じ
一週間前、文ちゃん(兄の長男)の写真を見せて
「かわいいね」「あー」と返答
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祖父が亡くなる日まで側に置いていたフォルダー。日記やノート、ペンケースなどが収納されていた

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ペンケースにはたくさんの鉛筆と色鉛筆が入っていた。祖父は絵を描くのが大好きだった

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フォルダーには父1歳の写真がラミネートして収められていた。大きく「KOSUGA」の字

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祖父が最期まで持っていたクリアファイルに収納された写真アルバム。祖母を写した2枚

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写真・上は私が写した1枚。下は祖父による私と祖母

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写真・上が祖父、下が父