塚本晋也

Interview and text by Tomo Kosuga
日本政府が〝クール・ジャパン〟なんてキャッチコピーを打ち出してコンテンツ産業を海外に売り込もうとしているのは最近の話だが、そもそも日本人の創造力は〝クール〟の垣根を超えた先の、世界的にも突出したドロドロした超妄想力をエキスとしている。だから〝クレイジー・ジャパン〟と呼ぶくらいがちょうどいい(心のなかでは〝クレイジー・HENTAI・ジャパン〟と叫びたいところだが、まあ良しとしよう)。
で、実際にクレイジー・ジャパン代表として挙げられる人物を考えたとする。色々なクリエイターが思い浮かぶと思うんだが、そのうちの1人として、或る映画監督が浮上するはずだ。
中学時代に自主映画を製作し始めたその男は、いかなる時も8mmカメラを握りしめながらすくすくと成長。そして28歳で生んだ映画がその後の人生を決定的なものにするばかりか、名だたるクレイジー・ジャパンのなかでもカルト的な人気を博すことになるーー。男の名前は、塚本晋也。そしてその記念碑的作品こそ『鉄男』だ。
1988年のローマ国際ファンタスティック映画祭グランプリをみごと射止めた映画『鉄男』が塚本にとって特別な作品であることは、続く第2作『鉄男II BODY HAMMER』の公開が証明している。そんな『鉄男』が誕生20周年を迎えた今年、シリーズ第3作となる最新作『TETSUO THE BULLET MAN』がついに発表された。
8ヵ月ものあいだ水面下で製作されてきたその新作と、ヘビ好きなオレが愛して止まない『六月の蛇』を中心に、プライベートでの変化が作品におよぼす影響や、監督は果たしてSなのかMなのかといった素朴な疑問まで、憂鬱な雨が降り注ぐなか、ジットリとした愛のある話を隅々まで聞いてきた。
——はじめまして。……塚本さん、とても疲れてそうですね。連日の作業、お疲れさまです。 
塚本晋也:いえいえ、そんなことありません。いつもこんなカンジなので。新作の編集をずっとやっていたのもありますが、最近そのほとんどが終わりまして。いまは、画のクオリティを上げるために画の調子をいじったり音楽を決めたり、効果音を作ったりしているところですね。
——ではその新作について、簡単に教えてもらえますか。
いま作っている新作は、『鉄男』シリーズの3作目となる『TETSUO THE BULLET MAN』です。一見すると過去の作品『BULLET BALLET』に近いタイトルですが、これは〝弾丸のようにスゴい速さで弾け飛ぶ〟という意味にちなんでつけただけなので関係はありません。そして過去の『鉄男』2作と同様に、今作も製作/監督/脚本/撮影/編集を自分が担うという手法で作りました。『鉄男II BODY HAMMER』も『鉄男』の続編ではありませんでしたが、今回の『TETSUO THE BULLET MAN』も同様に全く新しいストーリーとなっています。撮影は東京で行ないましたが、セリフは全篇英語、主役もアメリカ人男性が演じています。そして僕自身も、『鉄男』2作に出てくる〝THE GUY〟という役で今回登場しているんですよ。
——監督の作品を振り返ると、2000年以前では〝人と機械、都市と肉体〟とうテーマで掘り下げられていたのに対し、以降の『六月の蛇』や『ヴィタール』ではまるでテーマが変わったように見受けられます。そうした変化を踏まえると、今回の新作はどういうベクトルにあるんですか? 
その頃の時期を境に、僕の興味の矛先が〝外側への興味〟から〝内側への興味〟へと変わっていっているような気はします。たしかに以前の作品では〝肉体となにかとの関係性〟だったのに対して、『六月の蛇』では肉体そのものが持つエロスを扱い、『ヴィタール』では〝肉体の内部を探ってみるとナニがあるんだろう?〟といった問いかけでした。だけどその辺のテーマでなにかこう、ガッチリと掴め切れていないような、悶々としたカンジがまだ残っていて。なので今回の新作は、その〝悶々〟の集大成のような作品にしたつもりです。それに加え、僕がこれから先突き詰めていこうとしている新しいテーマもほんのり入っている。そんな感じですね。
——監督の作品の特徴のひとつとしてアフレコが挙げられます。それは現場で音を犠牲にする代わりに画を優先するためですか? たしかに同録だと、せっかくいい画が撮れても音がうまく録れないせいでNGになることが多いと思います。
そうですね、主にそれが1番の理由です。それから、映画製作を始めた当初はアクション映画ばかり撮っていたんですけど、アクションって1つひとつのカットの尺が短い。だからそれぞれに時間をかけすぎるよりは、後で一気に録音した方が手っ取り早かったというのはありますね。その後に関しては、演技を必要とする映画を作っていくにつれて同録の良さを感じるようになったのもまた事実で。それぞれの良さがあるということでしょうね。それでも僕の場合、どちらかというと画を重視したり、作品に命を吹き込み直すという意味合いでアフレコを利用していると言っていいと思います。
——普通、現場での同録が困難なときに止むなくアフレコを使うものですが、監督はそれを意識的に用いることで独特の世界観を成立させてもいますね。
やはり、昔からその手法に慣れているのが理由のひとつですね。それから僕は、本来役者でない人を抜擢することが多いため、現場ではとにかく演技に集中してもらう。そしてアフレコの時、録音に集中してもらいたい。それも理由のひとつかな。それから、子供時代に観た映画やテレビにアフレコの作品が多かったのもあると思います。当時の『ウルトラQ』はヘタなアフレコで録音されてましたけど、当時はそれが当たり前。日活ロマンポルノを代表する神代辰巳監督の映画でもアフレコを特徴として挙げられますが、それなんてもう、口の動きが全然合っていない。でもそれが面白かった。まるでアフレコでは、現場のセリフと全然ちがう内容を言っているんじゃないかと思わされるような、まさに〝新しい命を吹き込み直したかのようなアフレコ〟 。僕はまだまだそんな境地まで達していませんが、いつかはそんな作品をやってみたいなと思っています
——いま考えると『ウルトラQ』のオーブニングはトリップムービーでした。そういう意味では『電柱小僧の冒険』や『鉄男』に見られるような、コマ撮りのカットを小刻みに繋げたシーンはトリップ感満載で『ウルトラQ』との共通点も感じます。
自分はドラッグをやらない前提で作品を作っているので分からないことが多々ありますけど、確かに『鉄男』はアメリカじゃ〝ドラッグでキマる時に効果的な映像〟だったみたいで。『鉄男』の最後の方って、延々とグチャグチャ戦っているだけじゃないですか。それを観ながらドラッグでキマる人がいたっていうのはたしかに自然な流れだったのかもしれません。でもドラッグでキマッた時に見える映像というのが僕には分からない。だから1度、その類の本を調べたことがあって。そしたら〝後遺症も残らず面白い映像が見えるようなもの〟について色々紹介されていて。だけど試した経験はありませんね。僕にとっては、正常な状態で感じられる面白いものをいかに面白く作れるか、というのが課題でもありますから。と言って、クソマジメにそう考えているワケでもないですけどね。

映画『鉄男』より

——それでは次に『六月の蛇』について。タイトルに〝蛇〟とありますが、実際にはヘビが出てきませんね。

この映画の中でのヘビは、心の中のウネウネを表わしているんです。『六月の蛇』に出てくる生き物といったらカタツムリですけど、だからと言って『六月のカタツムリ』ではそのまますぎるので。それからヘビは女性のなかに潜んでいる生き物でもある一方、男性器のようなイメージでしょう?
——『六月の蛇』では、写真行為(カメラとストロボ)も男性器の象徴として映っていました。写真家の荒木経惟さんは「カメラは男根だ」という名言を残していますが、劇中にそうしたモチーフを挿入したのは、やはりヘビ的な意味合いから?
その点に関して言うと、 AVでハメ撮りしている人がハメ撮り方法論について書いたエッセイというのを参考にしたんです。そこには「女性を官能に至らすにはデッカいカメラとデッカいストロボで撮ること」と書いてあって。いくら性能が良くても、小さなカメラじゃ軽いシャッター音しか鳴らないでしょう? それでは官能感がなさすぎるということで、 ボカーン!とデカいカメラで撮りながら脱がしていくのがイイと書いてあって。僕もまったくその通りだと思い、以前からカメラを題材として扱いたいと思っていたのもあって、〝写真を生業にしたかったものの叶わなかった男〟というキャラクターを映画に出してみたんです。
——『六月の蛇』で監督はストーカーの役を演じましたね。そしてヒロインを写真行為で追いつめていく。一見するとドSな男ですけど、人をキズつけつつも最終的には自分が1番キズついていく。あの映画で最も報われないのは彼だと思うんです。それから別の作品『東京フィスト』でも、監督の実の弟さんを劇中におけるライバルとして登場させ、弟さんの役に自分のオンナを奪われるというシナリオでしたね。監督って、実はSに見えてかなりのMじゃないかと。
なんとなく雰囲気はそっちの方が合っているかな。中学生の頃から自分ではM寄りだと思う一方、映画の中ではどちらかといったら〝Sの役を演じつつもMのキモチを味わう〟といった倒錯したケースが多いんですよ。だから、握りコブシを振り上げて「オレはSだぁー!!」というカンジの人間ではありません。だからといってSMクラブに行ったことがあるワケでもなくて。逆に行かない分、映画でその想いを爆発させているというのはあるかな。
——『東京フィスト』で主人公扮する監督が血だらけになりながらコンクリートのカベにドツくシーンがあって、そこで奥さん役が「コンクリ相手じゃ、あんまりだろ?」と言って監督の顔をしこたま殴りますね。あのシーン、いつも最高にウットリしながら観ちゃいます。ああいうヘンタイなシーン、大好きです。
(笑)僕の場合、そういうのは実生活じゃありませんね。あくまで作品で出すだけで。アタマの中ではヘンタイだったりするんですけど、実生活は意外とノーマルなんです。もしそういうことが出来ていたら、作品なんて作らずに済んでいたかもしれませんね。
——『六月の蛇』の前後でお子さんが生まれたと聞きました。それはひとえに、2000年を区切りに変化している監督の作風にリンクするようにも感じられます。私生活の変化が作品にもたらした影響は無視できなさそうですが。
それはあるかもしれません。最近でこそ穏やかな生活を送っていますが、それこそ20代の頃なんてマグマの噴出というか、そういった感情がウズウズと出まくる毎日でした。でも、子供が生まれてからは考え方も相当変わったと思いますね。変わるだろうと予測していたというか、自分から変わりたくてずっと子供が欲しかったんですけど。例えるなら、自然を手近に引き寄せたいといった感じでしょうか。そしたら、モロにそういうものがやってきた、というか。それこそ、台風や暴風雨が吹き荒れるといった大自然がいきなり目前に現れて。でもそれは、望みが叶ったんだから文句はないでしょ?という感じの大嵐なんですけどね。
——つまり、それまでの監督が〝機械〟で、お子さんの誕生が〝自然〟。その2つが出会うことで均衡が生まれたと。それってなんか『双生児-GEMINI-』や『六月の蛇』のテーマに近くも感じますね。
『六月の蛇』は最初こそ、邪悪な悪魔のようなストーカー映画を作るつもりだったんで。だけど、段々と変わってきて。その時期に結婚して子供も産まれる直前だったうえに、母が病弱になったりもして。そういった身の回りの変化が影響した可能性はありますね。だけど、いくら私生活で自分の母親が病弱になったからと言って、病気の母を救うストーリーを映画にしても、自分はそこに調和感を感じることはできない。だから、どちらかと言ったら『悪夢探偵2』のように、観客から「なんの救いもない話だ」と言われるような作品を作ってようやく自分の中で調和が取れたりもしますね。そこが面白くもあり、難しくもあるんですよ。
——しかし今回の新作は『鉄男』シリーズということもあって、原点回帰と言いますか、昔のテイストを復活させての公開、という感じでしょうか。
そうですね。子どもも大きくなってきたし、そろそろ昔の自分に戻りそうな予感はあります。ここ数年は〝自然〟とお付き合いしてきたけど、そろそろそれもカラダから離れ、また都会のドロドロへと戻る時期なのかもしれないってことですね。「あー、自然は良かったぁー」みたいな。アフリカ旅行へ行ったわけでもないのに、自然を十分味わった感じです。そういう意味で新作を振り返ると、自然を見ちゃったことによる丸みも感じられる一方で、これから僕が向かうべき新たな方向も出ていると思うので面白いと思いますよ。でもそれとは別に、壮大な自然の映画もいつか撮ってみたいですけどね!
VICE MAGAZINE FILM ISSUEにて掲載