写真を撮る立場とそれを編集する立場についてですが、正直に言ってぼくは、よく言われているようなカメラマンとエディターとの対立ということは、余り感じたことはありません。エディターによって写真の順序が変えられて、ストーリないしの主張が変ってしまうということがあるなら問題は別ですが、しかし写真家は写真を撮る段階ですでにシャッターというものを切っているんだし、そして何百枚かのネガを作って何十枚かの写真を伸ばす、そういうことで、すでにいくつかの自分というもののフィルターを(それはつまり写真家の立場ということにもなりますが)通しているのだと思うんです。だからと言って、自分の写真をどのように扱われようとかまわない、という事ではないのですが、最初の意図にそって、最初のテーマ通りのことで扱われるということであれば、その後の順序の問題とか、何十枚かの写真の中での選び方、いわゆるセレクトの問題とかについては対立ということにはならないと思います。そして印刷されて最終的に完全なものとなった写真に対しての作者の態度というものにも、様々なタイプの人がいますが、例えば、自分の写真の上にどっかと座り込んで、さあ来いという人もいるんですし、写真の後に廻って必死になってそれをささえている人とか、又、すでに出来上ってしまった写真には目もくれないという人もいるわけです。それを自分について言えば、印刷された写真に対しては、自分から離れてしまったものとして見るタイプだと思います。しかしその後の一般的な評価とか、批評とかが気にならないとかいうわけでは決してありません。それはコマーシャルの場合でも、ドキュメントの場合でも同じことなんですが、新聞に出た時は、その日の新聞を良く見るし、雑誌に出た時は、やはりそれを熱心に見るわけです。しかし、そういうこと以外に、写真上での興味の向け方というのは年々変ってくるようです。例えばコマーシャルという範囲に限ってみても、ぼくはデザイン・センターに入ってから三年半の間、そこに居たわけですが、そこで一つのスポンサーの仕事を義務的にやるわけです。テレビとか、冷蔵庫とかを毎年くり返して撮っていると、それはそれでだんだんといわゆる「撮れる」ようになってくるんです。しかし、やはりそれではアキてきます。テレビはどういう角度でライトを当てて、どういう風におさえてという具合に、その範囲というものが全部わかってきます。その範囲がわかってくれば、そこからはみ出したものを追って行くようになります。今年は新聞でカラーテレビのコマーシャルを、それまで三年の間写してきた以外の面、つまり人間が見ている表情ということで撮りました。そうすると他の物の写真を撮るという方は、他の人に委せてしまって、なるべく自分ではやらないような方向にもって行ってしまうようです。そういう具合にして、コマーシャルという範囲に限ってみても、自分のやるべき事と、やらなくとも良い事の整理がついてくるんでしょう。話は変りますが、ぼくは職業柄、人の写真を見る機会というのが多い方ですが、その写真の良し悪し、また好き嫌いというのは多分に触覚的なもので、どうしてそれが良いのかということより、やはり最初に良いものは良いのだという風に感じてしまいます。そして、その意味づけというのは、正直に言って触覚的に感じた後から出てくるようです。
結局どうしてその写真が良いのかなどということは、批評家が色々と分析して考えることで、そちらの領分のような気がするんですね。しかし、この写真はここが良いのです、あそこが良いのですと説明されると、やはりそう思って見るのだし、それが習慣になって、かえって良い結果になる場合もあります。しかし、ひとたび写真を撮る立場、見られる立場にたち帰って考えてみて、写真にはその時点で興味を持たれるものと、十年後、百年後になって歴史的価値を生ずるものと、二通りあると思いますが、ぼくはコマーシャルにしろドキュメンタルなものにしろその時点に即したものでなければ仕方がないと思います。その写真がどのくらいの人に見られたかということが数字で出せる時代がだんだんと来ているのですから、写真というものは、写真家同士は別として、人の見てくれないものは意味がないと思うんです。もっともカメラ雑誌は例外と言えるでしょうね。カメラ雑誌が貸しギャラリーである、あるいは写真の核であるという意味はそこにあるんですから。
そういう意味でカメラ雑誌と、それ以外のグラフの場合とは全く違っているはずなのですが、その辺りを写真家自体も混同して考えているようなんだなあ。今度、河出書房で週刊誌を出すことになって、ぼくはそこで仕事をするわけですが、それにしても、写真的に良いとか、悪いとか言う以前に、やはり見てくれなければ仕方がない。見てくれなければ意味がないのだからと、そういう割り切った観点で Directしていこうと思ってます。例えば楽しませるという目的の雑誌であるとしたなら、それを作るという立場では、楽しませることに徹底すべきです。これはぼくが作家いかんにかかわらず、その雑誌でDirectするという立場で考えてみればということですが。つまり写真というものは、どうにでもなるもので、コマーシャルなどで、楽しませる写真を撮ってくれ、考えさせる写真を撮ってくれと言われれば、それに専念することになるわけです。
しかし、そこで写真は何かなどということは、あまり一本調子には個人としては考えないんです。写真というものはやはりそういう場所で使われて、写真なのだと思います。言ってみれば、ぼくは、振幅しながら写真を撮っていると言えるかも知れません。写真家の中にはいろいろな人がいて、ひとつのものを純粋に追いつめていって、その核に近づくといったタイプの人もいます。しかしぼくは、時計の振子のように振幅しながら、周りを見まわしながら、そして、そちらの方の事も分りながら行きたいタイプなんです。時計の振子のように振幅し、その振幅の幅の中で仕事をしている時に、こちらの端の仕事をし、又、時には、あちらの端の仕事をするという事を積み重ねる。そして、その振幅の中心の所にぼくの生活があり、ぼくの写真家としての立場があるのだと思うんです。(以上談話)